2011年12月31日土曜日

着たっきり爺さん

単なる物忘れと認知症は違うらしい。
いわゆる度忘れは、単なる物忘れの部類。
同じ話を繰り返し話す、何時も探し物をしているのは人は認知症気味。
メガネを探し歩くのも、もしかして認知症の始まりかもしれない。

身なりを構わなくなったり、同じ衣服を着用するのも認知症の初期現象との事。
思い当たる節がある。
出掛ける用事の無い時のパソ爺の日常は、髭剃りはせず無精ひげを伸ばし放題。
衣服も同じ物を着用し、取り替える気がしない。
洗濯するよ、と言う女房の声に頑なに拒否して着続ける。

だから時たま葬儀などに参列する時は、髭剃りの痛い事、黒の背広にする時の戸惑い、ネクタイの結び方からしてぎこちない。
その留守に草臥れ切ったズボンや、セーターが収集され洗濯機に放り込まれてしまう。

もう一つの現象として、此れまで興味を示していた物事に反応を示さなくなる事らしい。
女性だの、パソコンなどに何の反応を示さなくなったら当確である。
その点パソ爺は、居酒屋で給仕して呉れている女性をチラチラと、鑑賞する気は残っている。
綺麗な花は花と見るし、可愛い印象はやはり好ましく感じられる。
パソコンも時に面倒になるが、1日1回は起動して見ないと落ち着かない。
此れは中毒気味なのかもしれないのだが、止められない習慣となっている。

今年も後何時間かで平成24年となる。
地球が誕生して45億年、人類誕生がチンパンジー・ボノボの祖先と別れたのは600万年前~700万年 前くらいらしい。
その間、人々は交配を繰り返しながら増殖をし、全地球上に散らばり、住み着き、生活を営んできた訳だが、何処かでその先祖が途切れたらその後は続かないのだから、命は大切にしなければ600万年前の先祖に申し訳ないと思う。
認知症だって良いじゃないか、人間として生きて来たのだから。
義務も果たしてきた。
余り出来の良くない子供達ではあるが、リレータッチは出来たと思う。
その次の世代は、子供達が考えればいい。

2011年12月27日火曜日

ケチ臭い話

その1
例年の通り年賀状の作成を始めた。
何年か前までは、150通ほど出していたが顔も思い出せない人や、もう会う事もないであろうと勝手に決めた人たちを整理し始めて50通ほどに絞り込んだ。
そうした人からちらほら寄こされるが、おそらくパソコンの住所録から機械的に印刷して居るものと思い、返信は出さないでいる。
さて、本年もご不幸が有ったお宅からの挨拶状を整理して、住所録を作り始めた。
毎年50通を目途に購入するから、以上は出せないので少し絞り込んだ。
たかが50円、それで日頃の疎遠を詫びるのには高くは無いのだが、歳を取るに従い付き合いを狭める方針を立てたので、それでやっている。

プリンターのインク表示が残量不足のサインを出しているが、構わず印刷を始める。
表書きは終了し、裏面の作成で字数を増やしたのが残不足に拍車を掛けてしまったのか、ついに赤マークが出て止まってしまった。
買い置きは置いていないし、買いに行くのも寒くて億劫である。
そこでインクカートリッジを取り外し、中を透かして見れば少し残っている。
機械は機械で、有る一定限度のカウントをすると無いと判断する事を何かの雑誌で読んだ事がある。
そこでカートリッジを振り、満遍なくインクが行き渡るようにしてセットしたら「このまま印刷を続けるには、プリンターのOKボタンを押してください。」とのコメントが出た。
ただし書きが付いている。「インクが切れた状態で印刷をすると故障の原因となります。」
迷うところである。
少しのインクを惜しんで、プリンターをお釈迦にしてしまったら元も子もない。
しかし、決行あるのみ。
OKボタンを押す。
暫くプリンターはもごもご言っていたが、やがて印刷を開始して最後の分まで終わらせた。
こうして平成24年分の年賀状は無事出せる事になったが、セコイ話であると苦笑いをしてポストに投函した。

その2
どだいケチ臭いとはどのような事なのか。
物を惜しむ、それ以上のものであろう。
落語にもケチな噺は幾多もある。
息をするのも惜しいとか、奉公人の味噌汁に田螺が入っていたと思ったら、自分の目が映って居るほど何も入れていないとか、隣のうなぎ屋の嗅いで食事をさせていたがそこから匂い代を請求されるという噺もある。
しかし、「黄金餅」はその最たるものに違いない。
願人坊主、言うなれば乞食坊主の西念がふとした事で寝込んでしまうのだが、医者代が惜しいと言って水を飲んでは便所に行き、病を下すと言って薬も飲まない。
そこは貧乏長屋であるが、隣の住人である金山寺味噌の行商をする金兵衛さん、何か食いたいものは無いかと西念に聴くと、餡ころ餅が食いたいとの事。
お金を出しなよと西念に言うが、自分のお金では嫌だというので仕方なく買って来てやり、一緒に食べようとすると見られているのが嫌だからと追い返されてしまう。
腹の立った金兵衛さん、壁の穴から見ていると西念は懐から胴巻きを取りだし、門付けなどでため込んだ小金を餅に挟んで食べ始めるのを見てびっくり。
そうやって全部餅に包んで食べ尽くし、やがて死んで行くのだが、その小金を如何にして合法的に手に入れるかが、金兵衛さんの知恵の出し方が面白い。
貧乏寺でお弔いをだし、焼き場へ運び込んで腹だけ生焼けにさせて呑み込んだ小金を取りだす。
この噺は、古今亭志ん生師の十八番であるが、談志のはけたたましい。

異常に金に執着する人がいる。
それも有る程度ため込んだと言われている人に多いから不思議である。
金を出すなら仲間付き合いはしないとか、宴会での割り勘で揉める事さえある。

その3
プリンターと言えば、印刷用紙が馬鹿にならない。
特に講座の補助テキストを作成する場合、作っては推敲し、また印刷して推敲を繰り返しながら完成させる。
手間も大変だが、その用紙も相当なものである。
そこで考えたのが裏を利用する事で有るが、時に折れ曲がっていたり、ホチキスを外し忘れた物が混ざっていたりすると大変な目に遭う。
プリンターに挟まり排紙出来なくなり、無理に引き摺り出そうものならプリンターの印刷面が故障し、綺麗に印刷が出来なくなる事がある。
動かすと不自然な音も出てくる。
紙代を節約しようとしたばっかりに、プリンターを入院させる羽目になるから用心しなければならない。
なのにまたテスト用として裏紙をセットし、印刷してしまう。
故障を取るか、用紙の節約を取るか、結果は一目瞭然で故障させない方法が一番で有る。
無駄が勿体ないのである。
再生紙と分かって居ても表裏使い、推敲を繰り返すのが習慣となっているのが悲しい。

食べ物でもそうである。
残すのが勿体ないと、皆食べて肥満になってしまった。
昭和11年生まれの談志も、事の他食べ物には執着したらしい。
少しぐらいネバネバが出ても炒めて食べたり、賞味期限などお構いなしで食したらしい。
世界人口の3分の1は飢えていると言われている。
その日の食事に有りつけるのが最大の関心事である。
しかし、日本は食料輸入国なのに無駄に捨てる量は半端ではない。
その捨てる分を、飢餓で苦しむ人達に回せれば死んで行く子どもを救える、これが談志のポリシーとなっているらしい。
これは戦争中に育っている昭和1桁から12・3年生まれに共通する食べる事に対する考え方であろう。
これは、ケチ臭い話ではないと思うが、如何かな。
酒なども、最後の一滴まで飲み干すから酩酊してしまうのだ。
これは、ほどほどにした方が良いかもしれない。
社会の迷惑と体に悪いと知りながら、ウイー酒持って来い!。




2011年12月17日土曜日

江戸落語と上方落語

どうしてこうも比較をしたがるのか。
不思議な性格である。

現在発行されている「昭和の名人完結編」26巻が22巻まで発売された。
前回も同様の企画物があり、やはり同じような形で有ったが、今回は上方の落語家が7人ほど名を連ねているのが特徴である。
折角購入したものだから再生して見るのだが、聴きずらい。
耳慣れない関西弁が早口で喋るので、何を言っているのか分からないし面白くない。
特に年取った落語家ほど訛りが強く、喋り方が汚らしい感じさえする、と言っては失礼であるが。
その中でも、桂枝雀は東京での公演が多く、これはこれで聴ける噺であるが、上方落語の大名人と言われる桂春団次の録音を聴いた事があるが、とてもじゃないが聴けたものではない。

これに対して、江戸落語は標準語で話すのであるから、耳に抵抗なく入る。
しかし、概して名人と言われる人の落語は面白くない。
桂文楽しかり、この人の落語は時間通りにきっちりと終える計算され尽くしたものと言われている。
落語は前回にも述べたが、八方破れかとぼけたものが面白い。
桂小文治や柳家小せん、お祖父さんまでは八王子の大地主であったが、没落して残っていたのは借金の証文だけで、それが市の文化財として保存され先祖の恥晒しをしていると言って笑わせる春風亭柳昇などが良い。
こうした人達の噺は間が良い。一口話しては暫く様子を見る様な間を取って話すので、聴いていて疲れない。
江戸落語も早口で機関銃の様に立て板に水と喋りまくるのは苦手であるが、上方落語よりましである。
しかし、この全集には林家三平は収録されていないのはなぜか。
必ずしも名人とは言えない人であったが、昭和の爆笑王とまで言われて茶の間を賑わせた落語が聴けないのは寂しい。
こういった時代であるからこそ、あの様なナンセンス落語で笑い飛ばして、辛い事や浮世の悩みを払拭出来たらと思う。
三平も2男坊が2代目を襲名したが、兄の正蔵と同じで名前負けがしているのが残念である。

2011年12月9日金曜日

シニアカレッジ最終回報告

今回で第7回目になるシニアカレッジも最終回である。
この間、2回休んだ。
如何しても行きたくない日もある。
眠い日もあり、自分に負けて休んでしまったのである。

最終回の今日は、また高次機能障害判定検査である。
課題1
「あ~し」のひらがなと、「1~13」の数字をA4の用紙にランダムに散りばめ、それを「1」から「あ」に繋ぎ、「あ」から「2」に、「2」から「い」と交互に牽制順に線を引くテストである。
5分以内に「13」に線を引き終わればOKらしいのだが、パソ爺は2分で終わってしまった。
隣の爺さんも同じタイムであった。
こうしたテストは概して女性は弱い。
受講者14人中、男は我々2人、後は元女性である。
16人でスタートしたのだが、その内男2人が脱落して今では隣の爺さんと2人のみである。
その中で5分以内に出来たのは半数で、後は出来ない。
元女性が多いのだから、出来ない比率が高いのは仕方がないのだが、こうしたテストが出来ないのは女性が多い事が分かった。

次は、数字が読み上げられて、その逆の順に書くものである。
1-6-7と読み上げられたものを、7-6-1と記録してゆくものである。
2桁から5桁までの数字が読み上げられるが、正直弱い課題である。
そこで考えたのが1-6-7と読み上げられたら、逆に1-6-7を後ろから書いて行くことにした。
これを頭から、7-6-1と正直に記憶して、記入する自信はない。
物事は便法である。

記憶を保つのは年々大変である。
パソコンの新知識を紹介されても、その場では理解出来ても、後になって思い出すのが大変である。
直ぐにパソコンを起動させ、ソフトを立ち上げて操作をしてもなかなか同じように行かず、試行錯誤してようやくたどり着く。
こうした状態が更に頻繁になり、パソコンボランティアの講座に支障が出るようになった時が、退き時であろう。
ただし、その退き時を判断する知能が、正常になって居ればの話である。
自分のしている事が他人から見ればチンプンカンプンであるのに、自分では気付かずに堂々と講釈している状態にはなりたくないものである。

周りの人に教えてもらうしかないのか。
願わくば70歳でも80歳になっても、最新のパソコン操作を述べられているようになりたいものである。
そして、自然に朽ちて行きたいものと思う。

修了証書を頂き、9月からのシニアカレッジはこうして終了した。



2011年12月4日日曜日

ピン芸人「ぴろき」と「きみまろ」について

再びお笑いの話題である。

「ぴろき」という漫談家を知っているだろうか。
自虐的、哀愁漫談として最近ラジオやテレビでお目に掛かる事が多くなった芸人である。
自身の身の回りに起きた不運を話題にして、ウクレレの様な楽器を奏でながら飄々とした語り口は、今時の喧噪的とも言える漫才より好感が持てる。
今から10年前になるであろうか、仲間と房総旅行の帰途に、時間が早いので浅草でお笑いを見て行く事になった。
浅草演芸場は色とりどりの芸人が出演して居るが、入場料が結構高いので隣の東洋館に入る事にした。
ここは売れていない漫才師や漫談家の腕試し的場所である。
その時に初めて「ぴろき」の漫談を聞いのだが、嫌みのない、それでいて人生の悲哀を話題にした噺を笑わせながら聴かせてくれた事を覚えている。
それが或る時、「笑点」に出演したのである。
この番組に出る事は、芸人のステータスが揚がると言われている。
その後、NHKの数少ないお笑い番組にも出演し、全国区的芸人になった。
そこに至るまでの人生は大変なものであったに違いない。
落語芸術協会に所属し、林家菊久翁師の門下に入っているとのことである。
方や「きみまろ」は、苦節30年、演歌歌手の司会を中心にキャバレーなどで営業していたが芽が出ず、中高年者の生態を面白可笑しく、揶揄的な噺を吹き込んだカセットテープを、背水の陣的思いでドライブインなどで観光バスに無料配布したのが、ブレークの元であると言われている。
いわゆる面と向かっては言えない高齢者の粗探しをして噺に組み立て、大衆相手に投げかける事で共感を与え、思わず我が身を振り返えらせて笑わせてしまう。
ある意味で毒舌漫談であるが、毒まむし三太夫や立川談志師とは違うペーソスが感じられる語り口が受けた。
しかしこの漫談を忌み嫌う高齢者もいる。
自分自身が笑いのネタにされていると、捉えている人は笑う事が出来ないのであろう。小生の知人にも、「どうしてあんな話を聞いて、笑って居られるのだろう。」と憤慨していた。
「ぴろき」は、実家の親に欲しいものは無いかと電話したら、「まともな倅が欲しい」と言われたと話し、お金が必要となったので2万円引き出そうと現金支払い機に入力したら、万を押さなかったため、2円が出てきて105円の手数料を取られ、更に2万円と再度入力したら残高不足と表示されてしまった。
ウクレレ漫談の牧信二なら「ああ嫌になっちゃた、ああ驚いた。」と、落とすが、彼は明るく陽気にいきましょう。いひぃひぃひぃ。」...と誤魔化し笑いをして次の話題に進む。

「きみまろ」の場合は、「そこで笑っている奥様、綺麗だったんですよ、面影無いですけど」と、漠然と会場に振り「あれから40年・・」と来る。
また、「足はガクガク、目はショボショボ、おしっこチョロチョロ」と高齢者が直面する生理的現象を話題にし、腰を屈めて舞台を歩きまわる仕草で笑わせる。
高齢者問題を、高齢者に聴かせ笑わせているのが特徴であるが、疲れた時などに聴いて見たい漫談ではない。
我が身を振り返り、身に詰まされる思いがする。
そこに、「ぴろき」との違いがある様な気がする。

一度Youtubで検索して聴いて見ては如何でしょうか。


2011年11月30日水曜日

犬の顔

我が家に柴犬もどきが居る。
いわゆる雑種犬である。名前は雌犬にも拘らず「コロ」。
貰って来た当座は小さく、可愛い犬であったが、今では中型犬で力が強く、良く吠えるから番犬として役に立っている。
孫にいびられているから、顔付きに似合わず性格は大人しく、見知らぬ子供に頭を撫でられたしても、じっと座っている。

それにしても、動物は同系種であれば、毛並みは勿論、顔まで同じで見分けがつかない。
犬にしても、人間が改良を加えて種種雑多な犬を作りだしたが、同系種の犬は体系から毛の色、鳴き声までほぼ同じである。
例えば、柴犬で目が細いとか、たれ目だとかの差異はない。
鼻が低いとか、団子鼻という犬も居ない。
性格は育てられ方によって、気性が荒いとか、おとなしいとかの違いはあるが・・・、猟犬として作られたポインターはそれなりに獲物のハンターとして活躍する。
人間はどうであろうか。
白人、黄色人、黒人と大雑把に分けられるが、黄色人である日本人は南方系と北方系とに分かれるらしい。
DND鑑定で鑑別が出来るそうである。
しかし、日本人で、且つ南方系と仕分けられていても、顔はばらばらである。目つきが違い、鼻の形、顔かたちなどなど、千差万別の体系でもある。
づんぐり、むっくりもいれば、長身、スリムと様々である。
交配のし過ぎで、いろいろな血が混ざりあったため、いろんな造形が出来てしまったのであろうか。
子供にしても同じような事があり、親に似つかぬ子供がいる。
どうしてあんな顔をした夫婦にこんな美系が誕生したのかとか、美系の奥さんが連れている子の顔が不細工この上ない顔とかにお目に掛かる。
整形でもしたのかと、疑って見る事がある。
概して子供は祖父母に似ると言われているのが、全てに似ていなければ先祖に居たのであろうか。

要は、「コロ」の顔をつくづく見ていた感想である。

こんな歌詞がある。
「地球の仲間」
僕は人間 君は動物
見たとこ少し違うけど
心の中は同じだ
心の中は同じだ
さみしい事も知っている
うれしい事も知っている
・・・・・・・

僕は動物 君は人間
言葉は少し違うけど
心の中はかよいあう
心の中はかよいあう
一緒に笑う時もある
涙をこぼす時もある
・・・・・・・

長雨になると散歩に行けず、糞の処理が大変である。
犬が糞する仕草は面白い。
枯葉が有るか、枯れ草が寄せ集められている場所が多い。
慌ただしく2・3回クルクル回りだし、足で地面を掻きだす。
掻きだした所に排泄するかと思えば、微妙に位置がずれている。
排泄中は、チラと飼い主である小生の顔を盗み見している。
申し訳ないとでも言っているのか、恥ずかしい姿を見られているので様子を窺っているのであろうか。
そんな時は、あらぬ方を見て居る事にしている。

養護老人ホームに犬を連れて行き、痴呆気味の高齢者に接触させていると痴呆が改善されたとの話を聞く。
犬は癒しである。
優しい気持にもしてくれるのが犬である。
しかし、老衰した犬の面倒を見るのは大変である。
食べ物も入らず、排泄もままならず、ただ横たわったままの犬を介護するのは人間の介護以上との事。
犬に死なれるとペットレス症候群になり、精神状態が不安定になる女性もいるらしい。
遺影を部屋の床の間に置き、日々手向けの線香をあげている話も聞く。
やはり適当な距離を置いた付き合い方が良いのだろう。

家の嫁さんは事の他溺愛している。犬も我々との態度と違うから驚きである。
吉井町から貰って来た時に、自分の使っているバスタオルに包んで来たから親と思っているのかもしれない。
抱かれても平気だし、なすがままになっているが、我々が抱こうとすれば暴れて始末が悪い。
時々仕置きをするから、警戒しているのか。

何れにしても地球上の命である事には変わりがない。
お互い、労り合い生きて行きたいものである。






2011年11月27日日曜日

管見、現代落語論

立川談志師が先ごろ亡くなられた。
享年75歳であるから、ぱそ爺と同年代である。
友人知人の訃報が聞かれる年ごろとなった。
しかしこれだけは年功序列通りには行かないから、同年齢であろうが、若かろうが、どうにも致し方なの無い天の配剤であるのが人生の妙である。

今回なぜ落語について蘊蓄を語ろうとしているのか、蘊蓄と言うほどの物ではないが、たまたま立川談志師の「五人まわし」という廓噺を聞いたからである。
この人の経歴、評価はあらゆる方面で語られているので、敢えて触れない。
しかし、同じ話を林家正蔵師の「五人まわし」と比較した場合、何か違和感が残った。

ぱそ爺は、お笑いが好きで、取り分け落語のカセットテープ、CDを100枚近く持っている。
寝ながら聞くと、いつしか寝入る事が出来る。
しかし研究をするために聞くとか、落語家の批評をするため、とかの類ではない。
しかし、同じ噺を聞くと違いが分かるというか、この表現方法は考え過ぎでは、と感じたのが今回のテーマである。
この噺の粗筋は、江戸時代の遊郭吉原の中クラスの女郎屋に喜瀬川というあばずれ女郎が居て、そこに通って来た男5人が手玉に取られると言うものである。
要は、一人ひとり部屋に通されているが、お目当ての喜瀬川はさる田舎のお大尽の所に入り浸って、他の男はほったらしにしたままである。
その男たちと、女郎屋の番頭のやり取りが中心になっているのだが、林家正蔵師の男たちの表現や人間性を、怒ったっり、虚勢を張ったり、諦めたりと、5人5様の語り口で表すのだが、特に、江戸っ子の気性を巧みに出していた。

しかし、立川談志師の江戸っ子は、ただ早口に捲くし立て、聞いていて理解しずらく、単なる早口言葉としか言いようのないものであった。
女郎に振られた若者が、腹いせと照れ隠しで番頭に当たり散らすのだが、単に聞いて居る者が理解できない早口で延々と捲くし立てるのを、江戸っ子と表現したとすれば勘違いも甚だしい。
こうした古典落語を、立川談志師が言う所の現代的な解釈に基づいて噺を組み立てているとすれば間違いである。

昭和の若手3名人として、古今亭志ん朝師、三遊亭円楽師、立川談志師が挙げられており、その中でも、立川談志師は博識と毒舌を売りに、これまでの古典落語に彼特有の解釈で焼き直し、高座に掛けて来た。
人はそれを、昭和の名人と評するのだが、YuoTubeなどでも聞く事が出来、客席とのやり取り、現代批評などは歯に衣着せない語りで受けているのは、他の落語家の真似の出来ない所である。

しかし、それは一時の仇花の様なもので、落語の真髄を貫くものではないと、ぱそ爺は思うのだが如何であろうか。
寝ながら聞くのには、荒唐無稽な噺を飄々と語るものが良い。
兎角名人とか、天才と言われる落語家の噺は疲れる。
寝っ転がったり、居眠りしながらでも聞けるのが、本当の落語の様な気がする。
「わたくしは、春風亭柳昇と申しまして、大きな事を言うようですが、今や春風亭柳昇と言えば、我が国では…(沈黙)、わたし一人でございます…」の決まり文句を言ってから始める落語は、何度聞いても聞き飽きないのは何故だろうか。


2011年10月30日日曜日

平成12年10月も終わりぬ

過ぎ行く時は止まらず、二度と再びこの日は戻らない。
生物の営みは健気で、儚い気がする。
24時間、朝になれば起きて食事をし、体を動かし。
昼の食事をして、再び動く。
日暮れとともに家に入り、テレビを見、ラジオを聞き、食事をして風呂に入り寝る。
こんなリズムで75年間繰り返して来た。

一生懸命に生きて来たのだろうか。
真面目だったであろうか。
迷惑を掛けない人生だったろうか。
世の人の力になって居ただろうか。

思うに、全てが真逆な人生を送って居た様な、忸怩たる思いがするのは何故か。
よわい75歳、ここまで来て見て初めて味わう老弱のためか、やり直せない過去を振り返る。

昨日、足利のそば祭りが有ったので電車で出掛けた。
足利市は歴史のある町であるとともに、足利氏の影響で京風の街並みが残っている。
会場は人で一杯である。
市内の有名そば店や、近郷近在のそば商組合が軒を並べて競い合っている。
テレビや、雑誌などで紹介されているお店は、長蛇の列である。
妻曰く「お父さんは並ぶのが嫌いでしょう。」
一時間も並んで食べるものじゃないと、比較的列の短い佐野そば商組合の大根そばを食べる事になった。
それでも座る場所の確保や、出来あがるのに10分以上は待たされた。
値段は550円で、手打ちそばに大根の千切りを乗せ、汁をぶっかけたシンプルな物であった。
佐野はラーメンが名物であるから、そばはマイナーな立場な麺ではと、思う。
見た目は細く、黒みがかったもので、一見美味しく見えたがそれほどのものではない。
それでも腹が張るから、他店の物まで味見が出来ない。
量を3分の1ぐらいな物を出し、数店を食べ歩き出来るような方法が採れないものか。
そうすれば1時間並んだ甲斐のあるそばなのか、人気は無いが宣伝された店以上のものか判断が出来る。
雑誌などに掲載される隠れた名物店などといわれるのは、レポーターの感覚であり、宣伝料を負担させられているとの事である。

その後、足利学校を拝観し、鑁阿寺に足を延ばす。
延ばすと言うほどの距離ではないが、学校の前を通って行ける。
境内には、七五三の姿をした親子がいる程度で、幽玄としていて気持ちが良い。
並ぶのも苦手だが、いわゆる人混みが嫌いなだけである。
この寺は足利氏の氏寺として邸宅の一角に建立されたとある。
それにしても鑁阿寺の寺号の謂われを知りたいのであちこち見て回ったが、それらしき説明はなかった。
電子辞書で調べたら、梵語のvamの音訳との事で、意味は馬の頭につける飾りもと、出ていた。
日光の大猷院も家光没後に天皇から授かった法号を寺号にしているから、同じ経緯なのかもしれないが、浅学非才の吾輩はここまでである。
写真は、足利市のホームページから転写したものである。
本堂
お賽銭100円で、家内安全、子孫繁栄、日々安穏、病気平癒と身勝手な4字熟語を並べて来た。大日如来様も呆れて居たに違いない。
境内の片隅に、ひっそりと立ち寄る人も無い様なお店があり、ところ天と、妻は田楽を頼み、一休みしてから帰途に就く。

両毛線の高架に伴い、伊勢崎駅の北口に有料駐車場が出来、1時間100円、24時間300円で、我がマイカーの場合は5時間ほどで200円であった。
ここに車を置いて、新宿行きのJRバスを利用して東京へ出掛ける人もいるという。
午前9時ごろ出発して、翌日の午前9時ごろまでに帰れば300円で済む。
便利になった。
こんな街並みになるとは、想像もしていなかった。

2011年10月4日火曜日

食器洗い乾燥機始末記

9月の初め頃か、食洗機が突然排水だけの処理をしだす様になってしまった。
日頃からこの機械の不調を訴えていた妻は、「もうだめね。」と、いとも簡単に宣言する。
8・9年前に購入したものであるが、こんな機械は単純構造なのだから、そう簡単に壊れはしないと思うのだが。
「最初から水漏れはあったし、見て貰っても直らなかったじゃないの。」
取扱説明書を探し、【こんな場合の対処】を見つける。
同じ症状があった。
専用洗剤を台所用洗剤と間違えて入れた場合は、全てのランプが点滅し、排水を繰り返すので庫内を洗浄してやり返るとある。
「洗剤は何時ものだから間違って居ないわよ。」と、さもさもそんなにボケてはいないとの口振りで、「コジマ電機に行って見ようよ。」、あくまでも買い替えを主張。
その他の原因としては、手順を間違えたのかとマニュアル通りにスタートさせようと停止ボタンを押したが止まらない。
排水を繰り返しているだけである。
「水が勿体ないじゃない。」
止む無く電源を引き抜いて強制終了させる。
このやり方はパソコンと同じ操作で、機械を更に傷めるので余り進められる方法ではない。
4・5分置いてマニュアル通りにスタートさせて見る。
動くではないか。
「これまでは、電源ON、スタートで動いていたんだから、いちいちコース選択、乾燥時間の設定などしないでも記憶して動いていたのよ。」
記憶基盤が劣化したのか。人間で言うボケが始まったのか。

その日はそれで終了したが、翌日再びトラブル発生。
「同じようにしたわよ。」
コースを変えてやったらどうかと提案。
「そんな面倒な事はやってられません。」
「第一、電源を引き抜いたり差し込んだり、コース選択をしたり、やる身になってよ。」
そんな事を言いながら、騙し騙しして半月ほど使っていた。
そしてとうとう「もう限界。」と、最終宣告。
手洗いした食器を、乾燥だけにして使用していたのだ。

コジマに出掛けて品定めをする。
同じメーカーの同じ系列の食洗機があった。
5万3千円。
そばに居た男の店員に、幾ら割り引くか聞いてみた。
現品割引値段との事。
つまり売れ残ったたな晒し製品を、処分価格にしてあると言うのだ。
散々いじりまわしたたな晒しだから、4万5千円だら買うよ、と交渉するが結構ガードが堅く、5万円で引き取り賃を含めて5万3千円までになった。元価格である。
妻は「これでいいんじゃない。」、すでに買う気になっている。
いやいや他店も見てからにしようと言う事にして、その日は引き上げる。

それから数日後、ケーズ電機に用事があり、買い物を済ませて店内を見て回った。
食洗機が並べてある。コジマと同じ製品である。
価格は同じぐらいである。
傍を通り掛かった店員に尋ねたら、担当者を呼んでくれた。
間もなく女子店員がやって来た。小柄で色白な可愛い子である。
「いらしゃいませ、食洗機でしょうか。」
これは処分価格なのかと聞いたところ、まだ新品があるとの事。
たな晒しでない事を確認して、5万円以下になるか交渉する。
女子店員は、可愛い目をぱちくりさせて「新製品ですから、そこまでは一寸。」、と言い淀んでいる。
そこでコジマでの一件を話し、あちらでは4万5千円までにすると言っていた事を話す。
嘘も方便、これも交渉術の一つです。
「お客様、暫くお待ちいただけますか。」
女子店員は店長の元に行って戻って来た。
「4万7千円のプラス処分費千五十円、合せまして4万8千五十円では如何でしょう。」、かなりの割引値段である。
可愛い子の応対なので衝動買いと思われてはと、その場では決めず金主元を連れて又来る事にして、その子の名刺を貰って帰って来る。

その日、昼食を摂ってから妻と出掛ける。
これまでの機械を取り外し、水抜きをして持参する。
「同じね。」値札が二枚ほど張り替えられていたので見ると、元値が6万8千円で次が5万8千円となっている。
現在が5万3千円であるから、出はじめに購入した人はかなりの価格で購入した事になる。
件の店員が来たので購入する事を告げ、古い機械を引き取って貰う事にする。
何と言う事か。
トランクを開けて前の食洗機を外に出そうとしたら、ホースが外れてそこから水が出て来た。
駐車場の路面にたらたらと、こぼれ落ちたのである。
それはまるで、まだ使い方によっては使えるのに、間違った使われた方をされためにスクラップとされてしまう悲しみの涙に見えた。

妻は、「ああこれで安心だわね。」と、嬉々として車に乗り込んだが、小生としては、あの排水ホースの水溜りが、長い間我が家の一員として働いていた食洗機の惜別の涙の様に思えてならなかった。

この年でセンチメンタルジャニでもないだろうに。










2011年10月1日土曜日

シニアカレッジ第2回目

今回の出席者は若干少なかった。
あの不規則発言していた、脳梗塞から回復したという爺さんが見当たらない。

パソ爺は自転車での出席である。
健康体操をするのに自動車を利用していたのでは何の為の体操か、などと粋がって乗り出したら坂道には閉口した。
ママチャリだから、踏んでも踏んでもスピードが出ない。
会場に着いたら息切れがしてしまい、血圧は150の90、脈拍が90。
荒川体操を10回ほどこなしたエネルギー消費である。

さてと、今日の講座は「高次脳機能障害」と題して、若い女性の介護療養士の話である。
内容的には、高齢者運転適正検査と同じものである。
兎角年をとってくると、注意力、判断力が散漫になって来る。
物忘れも酷くなり、言おうとした事を忘れて仕舞って、その場凌ぎで別な事を言ったりする。
そうした事を検査するものである。今回初めて採り入れたカリキュラムとの事。
人間の注意力として、
配分性
これは複数の事に気を配ることが出来るか、否かを判断する。
この判断が衰退すると、料理しながらテレビを見ている内に料理の事を忘れ、焦がしたり、火事を引き起こしたりする危険がある。

転導性
必要に応じて注意を切り替えることが出来るかどうか。
例えば、乗り物に乗って本などを読み始め、目的駅に着いたら降りられるか、乗り過ごしてしまうか、こうした注意力である。

選択性
情報の見極めが出来る。
おれおれ詐欺や催眠商法の被害に遭うのは、こうした注意力が減退してしまった人が多いとの事。

持続性
一定の活動の間、注意力、集中力を維持出来るか。
パソコン講座などの中にも持続不能者が結構いる。
聞いていられなくなり、別な事に手を出したり、私語を発する人である。
講座も、話が中心になる事があるが、なるべく話題をバライティにしたり、ジョークを交えたりしながらするが、話の専門家ではないから満足させる事など所詮無理で、此方が草臥れてしまう。

実技である。
1から25までの数字がA4の用紙にランダムに配置されているものを線で繋ぐものである。
標準は3分20秒で60歳台の能力との事、パソ爺は1分とかからずに完成したが、隣の女性はご丁寧にバインダーのヘリで直線を引いているから半分も出来ていない。
フリーハンドで良いわけだから、目的の数字を探しながら次の数字の場所も同時に探せば早く出来る。
いい加減な性格が分ってしまうかな。

次は、「かなひろいテスト」である。
不規則に作られたかなの4字文字群の中から「あ・い・う・え・お」を拾い上げて、〇を付け、速く、見落とさないようにするものである。
制限時間は2分間。
文字群は102群有り、1群に1から2文字配置されているが、無いものも有る。
これが時間を取ってしまう。
有る事を前提に拾い出しをしているから、無いと2度3度と見直しをする。
40から50近く散らばっているらしいが、パソ爺は37でタイムアップ。
30で60歳台、20から25で70から80歳台の標準であるとの事。
では小生の脳は50歳台後半か。

こんな事をした後、荒川ころばん体操で終了した。
結構疲れる講座である。
やれやれ、歳は取りたくないものである。
こんな事をするなど、想像もしていなかった。
馬鹿をしていたころが懐かしい。



2011年9月19日月曜日

ばばじじの健康学級

9月16日金曜日、「シニアカレッジ」に参加して来た。
伊勢崎市から委託された各地域の介護施設(ここは美原記念病院である。)が地域高齢住民を対象に、食生活指導や健康維持体操の指導をするものである。

昨年は、妻が出席して「荒川ころばん体操」を習って来て、パソ爺に一緒にやるよう勧めていたが、何かバカらしい気がして適当に付き合っていたが、当の本人がしなくなってきたので何時しかDVDプレイヤーも埃を被っている。

今回、市から勧誘のお知らせが来たので、自ら申し込みをしたのである。
3年前に脊椎症脊髄症の手術をしても左足の麻痺と左手の痺れは改善されず、特に寒い時期は顕著に発症するので、その改善になるか一縷の望みを託し参加した。
既に3度ほど転倒をし、幸い骨折はしなかったものの上唇打撲損傷、2度目は朽木倒れの様に横に倒れ胸部打撲をしたが、公園の土の上で有った為に大事に至らなかった。
3度目は、歩道に躓き前のめりに倒れてしまい、手で支えた積りあったが右額を打った様だったが血が出る様な状態ではなかった。
打った様だったが、とは変な言い回しで有るが、野球帽の鍔が直接地面に当るのを防いだらしい。

当日の参加者は17名で、婆さんが13名、爺さんはパソ爺を入れて4名であった。
何処へ行っても元乙女だった人が多い。
開会前に身長、体重を量り標準体重比率を算出、パソ爺は25%。
来ての血圧と帰りの血圧を測定。
開会されると、お定まりの自己紹介となる。
トップバッタとなったパソ爺は、此れまでの経緯を話し、少しでも左足の改善をしたい旨を話す。
大方は何処其処の誰で、よろしくお願いしますで終わるが、いろいろ話してくれた人もいた。
「風邪を引いた後、食欲が出なくなり体重が減少して行くのが心配で参加した。」
「一人暮らしになったら、靴下を履けなくなったり、パンツも履きずらくなってしまった。」
「物忘れが酷くなり、膝が痛む様になったので歩けなく成らない内に来ました。」
「介護していた主人が無くなった後、何処も行く気が無くなり、人と交わる事が無くなってしまったので参加した。」
などなど、高齢者ならでは悩みである。

先ず食事の摂り方が話された。
要は食べ過ぎず、バランス良く、いろいろな種類を多く摂る事に尽きる。
これが約1時間、その後、「荒川ころばん体操」の実地指導が有り4時散会となる。

参加して気づく事は、年寄りはイレギュラー発言が多い。
此れは、パソコン教室などでもそうであるが、パソ爺は1度目は大目に見過ごすが、2度目以降は「私語は慎むように」、と少しきつくたしなめる。
教室の秩序が保たれなくなってしまうからである。

カレッジは月2回、場所が美原病院で有るから何とか皆勤出来そうである






2011年9月11日日曜日

片言隻句というなかれ

災害地に行った大臣が、又もや辞任に追い込まれた。
不用意と言うか、国民を代表して居る国会議員としての自覚が無いのか、所詮資質が無いのかもしれない。
放射能被害から避難して居る市町村に、人っ子一人見当たらないのは当然であり、その指示を出したのは政府自身である。
その情景を「死の町」と表現するとは、余りに酷い。
好きで住み慣れた土地を離れた訳ではなく、後ろ髪を引かれる思いで、それも隣近所、親戚友人と離散する様に避難場所へ向かったのであろう。
その心情を理解出来ない政治家に復興は任せられない。

「放射能が移る」
此れまでも、この手の虐めが有ったと聞いている。
避難先の学校で仲間外れされている子供に、同情したばかりである。
子供同士は遊び心が半分で、避難児童の気持ちには無頓着である。
それを大人が言ってはいけないし、大臣たる人の発言は重大な重みをまして拡散する。

「真意が伝わって居ない」とか、「発言の中の一語で、前後の脈絡から差別発言では無い」と、釈明していた。
確かに、「人っ子一人いない町の風景は、死の町の様にしてしまった。申し訳ない事だ。」
「原発で放射能を浴びた衣服だから、側によると危険だよ。」とでも言ったのかもしれない。
そうした事でも、原因者たる政府側の一員としては饒舌が過ぎている。
記者団に囲まれた事で優越感を抱き、何のために被災地訪問したのかの目的を忘れ、箍(たが)が外れてしまったのであろう。

国会議員ほどの身分でもない名も無き市井の高齢者であるが、不用意な発言は得てしてある。
緊張感が無い時、有頂天になって居る時、怖いものなど無いと錯覚をしている時などに言ってはならない事を言ってしまう事がある。
「不用意な寸言、我が身を刺し、積年の友情 寸時に瓦解す。」幾度あったろうか。
こうした後悔は、死ぬまで持って行かなければならない。

残された余生、少しでも後悔が無いよう過ごしたいものと思っている。

2011年9月10日土曜日

頻発する災害

台風の進路によって、こうも被害発生に差異が出るものなのか。
12号の最初の進路は関東地方に向かっていた。
それが四国に向きを変え、瀬戸内海を渡り中国地方から日本海に抜けて行った。
中心が通過したコースの周辺に被害が発生すると言う、皮肉な結果となっている。

昔、この辺に大雨が降り、周辺が水浸しになった事がある。
雨台風が来ていた時であろうか。
兎に角、数日降り続いて居た結果、埼玉県との県境に架かる坂東大橋の橋桁すれすれまで水面が迫り、約1キロ弱ある川幅一杯に濁流が流れる様は恐怖感を覚えさせるものであった。

支流の広瀬川も同様に堤防の8分目まで濁流が押し寄せ、溢れ出そうな勢いで有った。
そうすると、市内に降った雨を集めて来た中小河川は逆流して排出出来なくなり、側溝から溢れ出る雨水は低地に押し寄せてくる。
市内を横断している前橋古河線に架かる新開橋東詰の低くなっている所に溜り、水深1m位となった居た。
そこに自動車が次々と進入し、エンコして大騒ぎとなってしまった。
幸い人的被害は出なかったが、担当部署は道路改良の必要性を上申したが、百年に一度の大雨に対処する予算は出せないとの理由で却下されたと聞いている。
その頃は、異常気象などと言う表現はなかった。
温暖化現象などと言う言葉も、聞かなかったような気がする。

何より悲惨だったのは、市内南部で広瀬川右岸に立地する下水処理場周辺地区で有る。
上流地域で雨水を排出させるために下水道のマンホールが開けられ、そこに流し込んだから自然流化方式で集められる下水処理場周辺地区のマンホールの蓋が1mも噴き上がり、汚物を含んだ汚水が住宅に流入してしまった。
処理場も地下に汚水が溜まり出す始末である。
浄化も出来ず、緊急事態として未処理のまま強制排出をせざるを得ない状況で有った。

時折旅などして、山峡に点在する人家を見ながら其処に住む人たちに思いを馳せる事が有るが、災害までは思いがめぐらない。
長閑であるが、病気になった時はどうして居るんだろう、と我が身に置き換えて想像はするが、大雨になったらどうなってしまうのか、とまでは考えられない。

三陸海岸に旅をしても、風光明美な絶景に目を奪われ、津波が来たらどうするんだろうなどとは想像だにしない。
仙台に旅した時、石巻市の海鮮料亭で食事をした事が有る。
あわび、うに、マグロ、いか、たこ等の山盛りに舌づつみをうちながら地酒を飲んだ。
北上川が悠然と流れ出る、河口付近に有るお店で有った。
無事を祈るばかりである。

今日、地震、大水被害者は、明日の自分達でも有る。

「水を治める者は、国を治める」、古くて新しい言葉となってしまったようだ。

2011年9月7日水曜日

我が良き友よ

吉田拓郎作詞作曲の歌である
本人も歌っているが、かまやつひろしの歌が良い。
著作権が有るので詳しく記載できないが、6番有るなかで一番良い歌詞は以下の所である。

「可愛いあの子に声かけられて
頬を染めてたうぶな奴
語り明かせば下宿屋の
おばさん酒持ってやってくる
アーアー恋よ 良き友よ
俺は今でもこの町に住んで
女房、子供に手を焼きながらも
生きている」
この歌は昭和50年頃に流行したものらしい。

その頃の我は何をしていたのであろうか。
古い書類を捜し出して調べてみた。
昭和50年頃は、税関係の調査を担当していた。
来る日も来る日も単車に二人乗りして、課税物件を調べていた。
流石に雨の日は外出はしなかったが、今思えば、何故あんなに猟犬の如く課税して歩き回って居たのであろうか。
眼に付くものは悉く把握するという、徹底振りで有った。
税務特勤手当が2千円程度であったろうか。
そして年収は、約270万円程度のものである。

その頃は自動車通勤をしていた。中古のコロナであった。
7年前にこの地に家を建てた。借りられるだけ借りて。
長男は、狭く古い家で3歳まで過ごし、その頃は10歳になっていた。
二男は新居で誕生して4年が経っていた。
一番充実して居た様な気がする。
安月給でも気にならなかった。
自分の思い通りに事が進み、順風満帆とまでは行かないにしても何の不安も、心配も無かった。

しかし、人生の禍福は糾える縄の如し、と言われる様に、それからいろいろな出来事が公私に亘り降りかかって来た。

無分別さゆえに、他人にも痛みを与えて来た。
人生の岐路に立たせられた時もあった。

今の自分が生かされているのは、そうした蓄積の上に有る様なものと真摯に受け止め、残された余生の中で、少しでも報恩、贖罪の念を持って送りたいと思っている・・・・・。
大袈裟な言い方でした。

依然として煩悩多き人生で、美形の婦人を見ては心が騒ぎ、美酒を好みて酔い潰れ、喜怒哀楽納まり難く敵を多く作っている現状は、不治の病と申すべきものかも知れません。

だからこの歌が心に沁みるのです。
「古き時代と人が言う
今も昔と俺は言う
バンカラなどと口走る
古き言葉と悔やみつつ
アーアー友よ よき酒よ
時を憂いて飲み明かしたい
今も昔もこの酒つげば
心地よし」


2011年8月19日金曜日

地上の星たちよ

大震災と原発事故から5カ月が経った。
被災者は地元に残った人、親戚に身を寄せた人様々である。

今回の災害が神戸淡路と違い、東北人が持つ純朴さと自然災害を受け入れる忍耐力、寡黙な高齢者などが秩序ある被災地として描かれている。
譲り合い、相互扶助、災害受容性は日本人の原点なのであろう。
今回の災害地は見事にそれを実証させたものと言えよう。

泥流の中から助け出された老人の「チリ地震津波でも被害に遭った、そこから復興した、また今度も復興させれば良い」の一言が言い表している。

兎角人間は、責任転嫁が強く、自己保身と我先の行動に走るが、少なくてもそうした姿は映されて居なかった。

それにしても米軍の行動の速さとネーミングの「トモダチ作戦」は強烈な印象を与えた。
かっての関東大震災の時も、アメリカの支援は群を抜いたものだったとの事である。
対米開戦時に於いても、その恩義を忘れない人達が開戦を反対したとの話がある。
戦後復興もアメリカが破壊し、アメリカがそれを建直し、衣食住のアメリカ流を浸透させて来た。・
それを対米従属と批判されるが、アメリカとの付き合いは長いし、表面的には自由平等の国家である。

今回の話題はそこではなく、題名の「地上の星」を取り上げるのが目的である。
米軍然り、自衛隊、消防、警察、行政、そして一般ボランティアの皆さんである。
特に忘れ勝ちとなるのが、原発復旧作業員の人達ではなかろうか。
それも過酷な現場を担当させられる、名も無き日雇い労働者である。
山谷とか西成地区から寄せ集められて来る人達は、使い捨ての労働環境で命を担保に働いている。
大企業独善のつけを払わされているのである。
社会の発展とか、快適な生活とは無縁の人達が、放射能が残っている現場に入り、器物を交換し、汚染された冷却水を浴び、空気を吸って働いている事であろう。

遅々として進まないニュース報道に怒り、予定通りに進捗して居ない怠慢に憤り、政治家の無能さをあげつらいしている人は多い。しかし、その陰で24時間放射能と立ち向かっている人達に思いを馳せている人は何人いるであろうか。

そして何時か収束した暁には、全国に離散して行くであろう人達。
今でも一顧だにされない人達は、福島原発の検証が有っても表には出ない。
むしろ企業側として表沙汰に出来ない人達で有る。
同じ人間同志として、上中下、下の下、その下の下という階級社会は厳然として残っている。
報われる事も無く、負を背負い込んで生きて行く運命にあるのかもしれない。

中島みゆきが唄う「地上の星」
「みんな何処へ行った
見守られる事も無く
・・・・・・
地上に有る星を 誰も見ていない
燕よ 教えてよ 高い空から地上の星たちを」


2011年7月31日日曜日

平成23年7月も終わりぬ

ここ数日は不順な天候が続き、新潟、福島が豪雨に見舞われ穀倉地帯の中小河川が氾濫して被害が広がっている。
昨年の酷暑に続き、東北大震災、原発事故と、災害続きの日本で有る。
100年、1000年のスパーンで見ればこうした事象は有り得るのであろうか。
それに輪をかけて政治が不毛の混乱を呈している。
この時期、誰が総理大臣になっても、魔法の杖でもない限りこの事態を急速に収拾は付かない。
菅総理も一生懸命やっていると思う。
菅降ろしの急先鋒は自民党で有るが、その陰で政治家を操っているのは霞が関の官僚ではないのか。
官僚の頭越しに政策が打ち出され、自分達に相談も無く事が決められて行く現政権が疎ましくてならないのでは、と思う。
はからずも露呈した原子力安全・保安院の電力会社擁護の行動は、国民の安全、利益より自分達の天下り先保全の何物でも無く、こうした財界寄りの体質は霞が関の依然として変わらない風土なのではなかろうか。
そうした体質の所に菅という抵抗物質が侵入したから、アレルギーを起こし何とかして引き降ろしたいがための策動として自民党を焚きつけているとしたら、付和雷同しているマスコミも、政治評論家も同穴である。
何も進まないと言っている原因は、自民・公明の党利党略が優先して居るからで、この非常事態に際し挙国一致、大事の前の小事を超越した復興対策を呉越同舟でも優先して決め、東北への救済に手を差し伸べるのが政治家の務めである。
更に、官僚のサボタージュが一層輪をかけている事も見逃せない。
事の決まりを平常時と同じ事務手続きを被災団体に求め、書類の再提出をさせている光景がTVに映し出されて居たのが何より物語っている。
脱原子力で良いではないか。
まだまだ人類の手に負えるエネルギーではないのだから。
経済が衰退して、国際社会から見放される、とした論調に惑わされてはならないと思う。
貧しくても、平和で、安心して息が出来、食べられ、寝られ、子供たちが遊べる環境での生活が良いのだと思う。
こんな狭い国土に密集している原発が、予想される東海、東南海地震で暴走したら何処へ逃げればいいんだろう。
麻薬撲滅キャンペーンの標語ではないが、「覚せい剤止めますか、それとも人間止めますか」ではなかろうか。
愚者の気持ちを述べてしまったようだ。

2011年7月9日土曜日

映画「小川の辺(ほとり)」を鑑賞して

藤沢周平原作の映画化である。
この作者の作風が気に入り、本屋で目にしたときに買い求めている。
長編短編で40編ほど目を通したであろうか。

しかしこの作者の生涯作品は、千点ほど有るのではと感じた。
それは昨夏、2泊3日の東北の旅で鶴岡市に一泊した際、市内の城址公園に建設されてオープン間もない「藤沢周平記念館」を訪れた時の陳列された作品を見ての印象である。

来館者も多く、閲覧室で読み耽る人も結構いたが、それより興味を引くのは市内に点在する寺院の案内板に、彼の題材とした作品の舞台がここであった事が描かれている事である。
誰それの親が切腹した時の寺であるとか、あの作品で決闘した場所は此処であるとか、小説と実在の場所が一体となって妙に切実感として迫ってくる。

さて映画で有るが、東山紀之扮する主人公が妹の嫁いだ相手を上意討すると言うものである。
妹役には菊池凛子が扮し、剣術が出来る男勝りの女偉丈夫として描かれている。

ストーリーはほぼ小説の筋立て通りで、東北地方の小藩である海坂藩(うなさかはん)の内紛に巻き込まれた主人公と妹の幼少時代の思い出に始まり、足軽の子供ではあるが兄弟と一緒に育って来た若者が、上意討と言うのっぴきならない立場に立たされて織り成す感情模様が良い。
特に、妹が同じ年頃である足軽の子供新造に寄せる密かな恋情の描写が切ない。
当時の階級制度の中で、決して許されない障壁を男勝りの妹田鶴が、嫁ぐ日が近ずいたある日、納屋で自分の婚礼支度の作業をしている新造の元に忍び寄り、新造に「いなくなるけど寂しくならないか」と迫り、衣服を脱ぎ自分の乳房に躊躇する新造の手をあてがわせて裸身のまま新造を抱き寄せるシーンは、武家の女としての慎ましやかな上にも絶ち難い別れの心情を精一杯訴えたものであろう。

最後の決闘シーンも見応えが有り、田鶴が外出した時を見計らって隠れ家に乗り込み、剣を交合わせ見事に討ち果たして早々に帰ろうとしたが、田鶴が戻り事の仔細を察知するや隠れ家に駆け込み、刀を持ち出して凄まじい勢いで兄に斬り掛かて行く。
最初はあしらっていたが、その内あちこちに斬り傷を負わされた兄も抜き合わせざるを得ず、最後は隠れ家の傍を流れる小川に突き落として斬らずに済むのだが、それでも田鶴は泣きもせずその川から這い出る様子が無いので、新造に引き上げるように命じる。
しかし新造の手が刀の鯉口を切っているのを見咎め、田鶴を斬る様な時に備え打って掛かる積もりでいたのかと詰問するが、新造が田鶴に寄せていた気持ちを察して許容し、後のことは新造に託してその場から立ち去る。
田鶴は傍に寄り添って優しく声を掛ける新造の胸に取り縋り初めて泣き出すのだが、その哀れな姿は夫を討たれた悔しさ、無念さと同時に、幼い時から意識していた男の胸に納屋での出来事を重ね合わせ、流す涙ではなかろうか。

原作は、「藤沢周平大全」に収録された同名の小編である。
この大全には、この春公開された「花のあと」も収録されているが、これは見逃してしまった。

2011年6月30日木曜日

高齢者講習は我を知る機会でもある

75歳を迎え運転免許証の更新に際し、6ヶ月前の高齢者講習を受けなければならない。
今年の10月4日が更新期限のため、6月29日に予約したT講習会場で受講した。
この日は入梅の中休みにしては猛暑日であった。
6,000円の受講料を払い込み、開講時間の来るのを待つ。

正式には高齢者予備講習と高齢者講習とに分けられるが、ここでは纏めて高齢者講習と呼ぶ事にする。詳細は末尾に図解を貼り付けて置いたので参考にしてください。

集まっているのは同年代の男性4人、女性1人の5人と思われたが、講座が始まって10分位してもう一人男性が参加したので6人となった。
前日に「1時10分前までにお出掛け下さい」と、連絡が有ったにも拘らず遅刻して来たため、試験官の印象は悪く最後まで気の毒な状態が続いていた。

最初に予備検査として2通の申請書を自書させる事から始まり、受講年月日、生年月日、本籍地、現住所地、名前、振り仮名などを書かされる。
次に、設問用紙が手渡され、先ず今何時かを問われる。
意表を衝かれるが、始まりが1時で遅れてきた人が10分過ぎだからそれから15分程度の経過と考え、午後1時30分として置いた。

次は、試験官が読み上げる50音を逆さに記入する設問である。
「さ、し、す、せ、そ」なら、「そ、せ、す、し、さ」と、記入すれば良い訳で有るが、何を聞き違えたのか、「そ」だけ書いて次の読み上げを待ってしまった。
次の読み上げでこのトチリに気付き、書き足して事なきを得た。

記憶力が試されるのが出てきた。
画面に4枚の絵が交互に4回映し出され、計16の動植物と物品を視認してから声に出して読み上げ、それから思い出させるという記憶力の設問である。
順不同に書き出させるのは16問中13問しか出来無かった。
その後ヒントが出て答えるのは15問思い出す事が出来たが、「果物」の「ぶどう」は全く記憶の外に飛んでしまった。

最後は時計を描かせ、時刻を記入するものである。
丸を描き、中心点を入れ、時刻文字を1から12まで配し、それに試験官の指定する時刻を短針と長針で表示させると言うものである。
余りに単純なので何か引っ掛けが有るのではと、勘ぐる様な設問であるが、認知症の人はこれが描けないのだそうである。

6人は3人づつ2班に分かれ、実地指導と適性検査を交互に受ける事になった。
我々は実地指導に廻される事になったが、運転するのが普通車である。
小生はここ2年ほど軽自動車を使っているので、車幅とハンドル感覚が微妙に違うのが気になる。
しかし、同乗して他の2人のを参考に出来たのが幸いし、一時不停止や車庫入れ、S字とクランク走行の失敗をしないで済んだ。
件の遅刻男性は、シートベルトの着装、座席のスライドに手間取り試験官にあれこれ言われてスタート。
S字カーブでの脱輪、車庫入れでのバックのし過ぎ等々散々である。
「〇〇さん!、バックはどうにするんだい。」試験官。
「バックギャーに入れ、後に気を付けて入れます。」87歳の遅刻男性。
「そうにしてやった?」試験官
「はい」男性。
「していないよう。全然後を見ないでバックしたからぶつかったんじゃないですか。」言葉は丁寧だが、棘のある注意。
「ああそうかね」暖簾に腕押しとはこの事かと、思われる受け方である。
「じゃ次は、ここを出て向うのS字に行って」
大通りを一旦出るのであるから、停止標識が有る無いに拘わらず、ここは停止をして左右確認をしてから向かいのS字に入るべきだが、「行って」の声に停止もせずにS字に入ってしまった。

要は普段通りの安全運転をすれば良いわけで有るが、この運転が公道を走行しているかと思うと危険を感じざるを得無い実地走行である。

二人目も同じ様でシートベルトの位置が分らず、うしろから此方が手助けをしてやる。
「△△さん、ギャーは入替えながら走行してよ。」試験官。
言われてみるとセコンドと半クラッチ状態で走行している様だ。
「耕運機の運転しかしていないからね、つい癖が出てしまうんですよ」
踏み切りは停止せず横切って行くし、農道での運転そのままである。
「事故たら大変だよ。」試験官。
「見通しのよい所を運転してっから」
「そういう問題じゃないんだよ」試験官。
こうして2人目が終わり、小生の番である。

シートベルトをして、座席を若干移動させ、フットブレーキを踏みながらサイドブレーキを外し、左右確認しながら徐々にアクセルを踏み込んで停車位置からスタート。
何と模範的な出だしであろうか。我ながら惚れ惚れする出だしであるが、ハンドルが重い。
普段の軽自動車に比べ、何と重い事か。
クランクやS字走行、車庫入れでは切り替えしが間に合わず、車体を前後しなければならなかった。ここは不本意な出来である。
しかしながら、他の二人が何の疑念を持たず直進していた走行車線上の障害物では、それを避けるために対向車線をはみ出るウインカーを出した事はGOODで有ったと、自画自讃。

こんな事で半日が過ぎ、会場から開放されたのは4時半過ぎであった。
高齢者が増加し、こうした適性検査を受ける者が年々増えるのであるから会社としては商売益々繁盛であるが、午前・午後とこれに付き合う試験官は大変な根気が必要である。
中でもおばちゃん連が煩いそうで、何か言えば倍返しで言ってくるそうである。

そう言えば、身近でも同じ現象が起きている。
あれは持ったか、道順は忘れていないか、暑いから安全運転で行ってよ等々、今日のこの高齢者講習に出掛けるに当り、言われ通しであった事を思い出した。


高齢者の免許更新の流れ

2011年6月23日木曜日

パソコン教室は花盛り

1ネズミをば手に汗して握ってる
高齢者パソコン教習の難関の一つがマウス操作である。
マウスは「握る」と表現すべきか、「手の平で包む」と説明すべきか。

「みなさん、今日からパソコンの勉強をします。此れがマウスと言ってパソコンとやり取りするモノです。日本語でネズミと訳します。」
「マウスの頭の部分に人差し指と中指を乗せて持ってください。」
長年労働した指の関節は硬く、大きな手の平はマウスを持って有り余ってしまう。
「かるーく持って動かして見てください。」
「画面の中で矢印が動いているのが分かると思います。その矢印を画面の絵(アイコン)に合わせてカチカチ(ダブルクリックの事)と人差し指で押して見てください。」
此れが出来ない。指が硬直してリズミカルに出来ないのだ。

最近は「叩いて見てください。」と表現しているが、どうもしっくり来ない。
マウスの固定とダブルクリックのタイミングも合わないのだ。
「男の手で悪いネ。」と言って受講者の手を上から添え、指でダブルクリックをして見るが、ポインターが動いてしまう。
「手のたなごころをマウスパッドに固定して、その昔、初恋の人の手を握ったようにマウスは軽く持って見て。」
「人差し指は素早く二度カチカチと、カチカチと、もう少し素早くカチカチと・・・・。」
何の事は無い「かちかち山の狸」の口上である。
コントロールパネルでマウスの調整をするが、此れだけは慣れしかないようである。
最近はマウスのクリック練習ソフトがあるが、これでも難関である。

人差し指と中指が交互に動かせない人も居る。
「メニューバーの[ファイル]をクリックしてみてください。[新規作成]とか[開く]などのメニューが出てきますよね。」
「ウ~ン?[標準]」とか[書式設定]があるよ。」
「え~?そんな訳無いでしょう。」と画面を覗く。
確かに見慣れないメニューが表示されている。
「欄外でクリックして、もう一度やって見せてください。」
ポインタを恐る恐る[ファイル]に合わせ、カチ。
出るのだ。ズラーと見慣れないメニューが。
しかしどこかで見たメニューだ。
「もう一度やってみて。」
繰り返す。
よくよく見ていると、人差し指と中指が同時に動いている。
気持ち中指が速く動き、右クリックと同じ操作をしている。
その為、メニューの[表示]→[ツールバー]のサブメニューと同じメニューが表示されているのだった。
「人差し指だけ動かしてね。」
また上から手を添えて「こうね。」と、人差し指に重ねて見せて解決。
しかし、また同じ事をするような気がする。驚異の2本指クリック操作。

2パソコンでローマ字習う戦中派
次の難関はキーボードからの入力である。
「文字入力をします。」
「ローマ字入力は、「あ」が「A」、「い」が「I」・・・」と入力の手解きをする。
「“あいうえお”と入力して見てください。」
Aのキーを押しっぱなしにするから、「あああああああ・・・」となってしまう。
「ぽんと叩き、すぐ離しましょうね。」
「い」・「う」・「え」・「お」。
往年の王選手一本足打法ならぬ、人差し指一本で全てのキーを探しに行く。
左手はひざの上に置いたまま。

最も困るのは専門語である。
「メニューは、パソコン機能の一覧表と思ってください。」
「・・・・・・?」
「ツールとは、パソコンを素早く操作する機能の事です。」
「・・・・・・?」
「マウスと連動するのがポインターです。機能に合わせクリックすれば有効になります。」
「・・・・・・?」
「カーソルは、文字を入力する位置です。」
「・・・・・・?」
「ドラッグは、マウスのボタンを押したまま移動させる事です。」
「・・・・・・?」
その都度解説をするが、チンプンカンプンである。
だからでもないが、ここだけの言葉にしたものがある。
「テキストの折り返し」は「犬の力を借りる」を使って図を動かす。
「ドラッグ」は「引きずり」
「ダブルクリック」を「カチカチ」などなど。
どの教室にも「かな入力」者が2・3人は居る。
鬼畜米英の時代に青春を迎えた人や、ワードプロセッサで「かな入力」が身に着いてしまった人は「ローマ字入力」は大変である。
70歳台のOさん、「かな/ローマ字早見表」を自分なりに作り、1字1字読み替えてはキーボードの英字を探し入力するが、促音(っ)、拗音(ょ)に手間取ってしまう。
その内、周りの人がじ~と待っているのが気になり、焦ってくると余計に探せなくなりとうとう辞めてしまった。
その後、入力方法を自由にする方針に切り替え、「ローマ字入力」と「かな入力」の混在教習にした結果、再入学して「かな入力」でスタートをしたところ、現在では老人会の書記を担当し名簿作りは言うに及ばず、催事のチラシや入場券まで作るほどに上達した。
中高年パソコンは、好きなようにやらせるのが一番だ。

3全身がフリーズしている高齢者

「では、もう一度やってみましょう。パソコンを初期状態に戻してください。」
「?????」
「今開いている画面の右上の×を矢印でクリックして終了するんですよ。」
「ここかい。」
「矢印が見当たらないんだよ。」
「ねずみが机の端まで来てしまって進まないんだけど。」
「線が絡まって邪魔くさいね。」
「画面が小さくなったよ。どうして。」などなど。
隣の人に聞いたりマウスを持ち上げたりと、ざわつきはじめる。学級崩壊寸前だ。
「ハーイ皆さん、こちらを見てください。ここの右隅の×を矢印でクリックすればいいんですよ。隣の[元に戻す]や「最小化」ボタンを押しては駄目です。マウスが机の端で行き止まりになったら、そのまま元に戻して転がせばいいんです。」
30分前にした操作を繰り返してみる。

ようやく全員が初期画面になったところで再開する。
Wordを開いてください。」
デスクトップのアイコンをダブルクリックする人は、手の掛からない人。
「どこどこ。」と探している人は、今後思いやられ人。
「ワード?そんなのどこにも無いよ。」重点指導を必要とする人。
「デスクトップにWordのアイコンが出ていないパソコンは、[スタート]から探してみてください。Wが四角になっている絵ですよ。」
「あったあった。で、どうするんだっけ。」鶏の三歩。
「マウスをカチです。」
「カチカチじゃあないんだね。」
「そうですよ。」あくまでも優しく。
「どれがカチカチで、どこでカチなんですか。」横から聞いてくる。
ダブルクリックとシングルクリックの使い分けに話が発展する。
「簡単に区別するのは、ポインターを重ねて色が変化するアイコンはカチ、それ以外はカチカチと覚えればいいと思いますよ。」本当?

今年80歳になる教室の最高齢者。
こうしたやり取りが行われている間、じーっと画面に向き合い微動だにしない。
「どうしました。」
「画面が動かないんだよ。」
「フリーズしたようですね。」
「え?」
「パソコンが操作に行き詰まって、ソフトが固まったらしいんです。」
「そんなもんかね。」
「最初からやり直しましょう。」で呪縛から解き放す。

4習うほど忘れる事の多かりき
先週祝日だったので2週間ぶりのパソコン教室である。
「前回作った会報をパソコンの画面に出してください。」
案の定「出ない!」「入っていない!」と言う騒ぎが起る。
「保存先をFDにしましたか。」「マイドキュメントにも無いですか。」
USBメモリーの人もいる。文書が見つからない人はパニック状態で騒いでいる。
中を覗いてみるが確かに保存されていない。
そこでまた、一通り保存の仕方を確認する。
「ファイルをクリック、名前をつけて保存をクリックして、現れた画面の保存先の場所を指定しますよね。」
「何処から指定するんですか。」
「保存先の右にある逆三角をクリックして、FDを指定します。」
「???」
雰囲気から察するに「マイドキュメント」に名前も付けずに直接保存したらしい。
「一旦終了してマイドキュメントに戻りましょう。」
「文書と言う保存した名前が有りませんか。」
「文書1・2・3といっぱい有るよう。」
それを一つずつ空けて見る。
その中からようやく見つけられた。名前も付けずに保存してしまったのだ。
ようやく全員の足並みが揃った。ここまで20分が過ぎる。
「今日は、飾り文字や出来合いのイラストで会報を完成させます。
見ててください。メニューバーの[挿入]をカチ、下に出たメニュー表から[]を選んで[ワードアート]をカチとします。
すると[ワードアートギャラリー]のパネルが出ます。この中から好きなもの選びます。では皆さんここまでしてみましょう。」で始める。
マニュアルを見ながら操作して行くのだが、早い人で5分、手が出ない人もいる。
プロジェクターで写しながらの説明であるが、受講者のツールバーが3行も4行も表示されて同じでないため、どこに何があるのか手が出せないでいるのだ。
整理して講師用の画面と同じにしてようやく始まる。
「そこまで出来たら次はタイトル[町内会 NEWS]と入れます。」
書体やサイズの変更も話す。
文字入力が出来ても、英字の入力は慣れない。
「何処を押せばいいんですか。」
「間が空き過ぎているようだわ。」
[ここに文字を入力します]が残ってていいですか。」
「良くないよ。」
高齢者にとって、たった7字の英字混じりを入力するのも大変だ。
こんなやり取りしているうちに休憩時間が来る。

「余り根をつめると血が固まるから血流を良くしましょう。
背伸び運動をしま~す。関節を柔らかくなるように手首をぶらぶらさせましょう。では、血を薄めるためにお茶の時間にします。」で、わいわいがやがや。
「この茄子漬旨いね。」
「夕べ漬けたばかりのだから。」
こうして20分の生き抜きをして次の時間が始まる。
[町内会 NEWS]が文書の真ん中に出て動かない。」
[
テキストの折り返し]を「犬の力」を借りると表現して動かせるようにする。
「変なデザインだから直したいんだけど。」
「選んだ図柄で性格が出るらしいよ。」
「イヤダー。」
[
図の書式設定]で直せることを話す。
かくしてタイトルも、イラストも難産の末に[挿入]出来、最後は[保存]である。
もう一度[保存]の仕方を話す。
何度も同じことを話すのが高齢者パソコンの習得の極意だと思う。
「来週はここからスタートしますからね。折角の文書が無くなっていたら大変だよ。」
しかし、この段階でフリーズしてしまったパソコンが2台発生。
サポーターの必死の努力にもかかわらず、復元出来ずに時間となってしまった。
「ああ~私の作った文書はどうなってしまうの。」
悲痛な嘆きを残し、本日は終了。

5絵心が無いから描くパソコンで
「今日は、[図形描画]を駆使して、道路や鉄道、公園、郵便局を案内図に作ります。」
「[描画キャンバス]を表示します。メニューバーの[挿入]、その中の[図]にポインターを合わせるとサイドメニューが出ます。その中の[新しい描画オブジェクト]をクリックしましょう。」
受講生の皆さんは、何やかにや言いながらマウスを片手にポインターを目指す項目に合わせクッリク。
バーンと[描画キャンバス]が画面に広がる。
「ウワー変なのが出たよ」と、声を挙げた方は正常操作、
「う?」とか、「文字が何処かにイッチャター。」、折角[図]にポインターを合わせたが、力余って隣のメニューをドロップダウンしてしまう人などなど、3ヶ所を辿る操作は大変です。
どうやらキャンバスが表示でき、皆さんが揃いました。
「この中に、[図形の調整]にある四角をクリックして、こうして地図を描く場所を作ります。」
「四角をクリックするとポインターが十字になりますから、左上に合わせ右下に引き下げます。」
「何処まで下げたら良いんですか?」
「キャンバスの4分の1程度で止めて指を離してください。四角が出来ましたか?」
これが躓きの第一歩、苦戦の序奏であった。
キャンバスに馴れない上に、図形や直線を描くのに狭すぎたのである。
「[Shift]キーを押しながら線を引きます。選択されている状態で[線の種類]で拡張工事します。」
「メイン道路は太線にして、そうでない道路は細くして縦横に道路工事をしましょう。」
「[オートシェイプ]を使い、六角形、星型で建物の図形を作ります。」
「[テキストボックス]で、文字を入れましょう。」
「道路や公園に色を付けます。」
「文字の周りの黒線を消します。」
ここまでで、幾つの操作をしたでしょう。
休憩20分を除いて2時間で来てしまった。
ただ言われるがままに操作をしていただけと言う方が殆どで、全く頭の片隅にも残らない雰囲気になった。
そこで方針を転換、グリッド線を方眼紙状に表示して始める事にした。
一般的にWordの初期画面は白紙の状態であるから、皆さんはグリッド線など初めて見るものでした。
「これは、普段は見えないようにしてあるだけで、画面にはあるものです。」
「だから、ここにチェックを入れるとこの様に横罫が薄く見える様になりますが、印刷はされません。」
「此れなら場所取りが楽だね。線も引きやすい。」
やる気だ出てきたらしい。

6やって見せやらせてみても未だ出来ず
「先週の道路工事は測量も不十分でしたから不揃いで、略図としては不合格でしたから、目安を付けられる様に5ミリ方眼紙状のグリッド線の出し方の操作をします。先にやって見ますから、手を休めて見ててください。」
一同の視線をプロジェクターで映されるWord画面に集中させることにした。
今までは説明と同時に操作もして貰っていたが、ものの2.3スッテプで行き詰まる人が大多数で、そこからの説明が耳に入らず、遅れを取り戻そうとパニックになっていたことがサポータからの進言で分かった。
これまでもそうして来た積りであったが、何時しか時間を節約することが優先して説明と同時操作になっていたのである。
「グリッド線のパネルが出たらここにチェックを入れて置きます。そうする事で、線に吸着性が出てオブジェクトが貼り付くので、[Shift]キーを使わずに直線が引けます。」
「チェックを外せばこの様に自在に貼り付けられますが、入れるとグリッド線に支配されますよね」と実演して見せたが反応が無い。
「やって見て」
「見ててと言われたから何も出ていません。」
素直にWordの初期画面のままで居たのだ。
何時もの同時進行になっていたのだった。
「そうでした。」
こうして一通りグリッド線の設定と消し方の説明が終わり、実際に操作に入る。
「では、公民館を中心に略図を描いて見てください。」
方眼紙状のグリッド線に沿って道路を入れ、建物も位置合わせをしながら描いて行く。テキストボックスで名前を書き込み出来あがりである。
大方の人は2・30分で完成したが、kさんは8分どおり出来上がったところでWordが閉じてしまった。
保存をしていないから最初から描き直しになってしまった。
「何処を触ったんだい。」
「いやぁ、何処も触った覚えが無いんだけど。」
テキストボックスも、書式設定の仕方を説明しないでしているから「文字が半分消えてしまった」とか「変換しても文字が出て来ない」などの声があがる。
「枠を広げれば出てるょ。」
[
塗りつぶし][線なし]は前回も話してあるから出来る人は黙っててもしているが、忘れている人はそのままになっている。
これは纏めて説明する事にする。
「お茶の時間ですが・・・」
「書き込みが出来ない内は駄目です。」
「・・・・・・」
お遊びの中にも厳しく、真剣に、徹底的に。

7省資源どこ吹く風と印刷し
「今日は印刷をします。」
「ランケーブルをパソコンとハブに接続します。」
「どこどこ。」またがやがやと、ランケーブルを持って右往左往。
「線の先がパソコンの入り口に合わせ、差し込んでくださいね。」
「じゃ、[ファイル]をクリック、[印刷]をクリックしてください。」
「え?ナニナニ。」
初めての操作は何時もこうである。
ようやく足並みが揃い、印刷の設定も出来、スタート。

順調に皆さんの作品が印刷されてくる。
「あれ、同じものが出てきたよ。またでてきた。誰のですか此れは。」
「私のでーす。」
「どうして何枚も印刷されるの。」
「さっきから、OKをクリックしても印刷されないので何回もOKしていたんです。」
「印刷機も一遍に印刷OKとされると渋滞を起こし、直ぐには出てこないことが有ります。」
「でも、私より後からOKした人が先に出てくるんですよ。」
「あまり何度もOKしたから、印刷機に嫌われたんじゃないですか。」
「・・・・・・・」

8Eメール着いたかどうか電話掛け
「前回のメールの学習で、お家で実際にメールを試して見ましたか。」
「しました。」元気な声が返ってくる。
「何方にメールをしましたか。」
離れて暮らす孫や娘が多い。
「しかし何だねえ。メールは手間が掛かって仕方が無いよ。」
「どうして。」
「電話帳みたいに番号案内が有る訳ではないし、アドレスの英字をいちいち入れなくてはならないしね、その上、確認しなければならないのだから。」
「?」
「だって送信した後に着いたかどうかを、電話を掛けて確認しなければならないのだから。その上、電話をかけたら留守電になっているので、メールを送ったので返事を貰いたいと言付けなければならないし。」
「そんな大切なメールを出した訳?。」
「いやあ、“ばあちゃんもパソコン教室でメールを習ったので返事くれ”と、書いただけ。」
「メールアドレスは他人にやたら教えちゃー駄目ですよ。」
「どうしてだね。」
「特に知らない人からのメールには返事を出しては駄目ですよ。迷惑メールが山の様に入ってくるんです。」
「どんなものがあるんですか。」
「融資の誘いとか商品の販売、一番悪質なのがウィールスを送りつけてパソコンを動かなくされてしまう事も有ります。」
「メールはしないほうがいいね。」
「安全対策さえしていれば、そんなに恐れなくてもいいですよ。」
「よく聞く架空請求書も同じなんですか。」
「そうです。人妻は悶えているなどと書いてあるメールをうっかり開くとアドレスが分り、送られてくるらしいですよ。そうしたメールは誘惑に負けずに削除してしまいましょう。特に男性は気を付けで下さい。」

9パソコンも風邪を引くかと聞いてくる
この日の休憩時間。
隣り合わせになったNさん。
「それはそうと、さっきウィールスが送りつけられると言っていたが、パソコンも風邪を引くんかね。」まじめな顔で聞いてくる。
ウィールスはインターネットの世界で流行しているし、メールなども感染するんですよ。」
「へ~、この間病院でA香港のワクチンを打ってきたが、パソコンはどこへ持っていけばいいんかね。」
病気のウィールスと勘違いさせてしまったらしい。
「ウィールスといっても病原菌ではなく、他人が悪戯や悪意を持ってパソコンに侵入して来ることです。」
「そんな小さなもの、どうやって侵入させるんかねえ。」
どこまでも人為的なソフトである事が理解出来ないらしい。

10ソフトなど気にすりゃパソコン使えない
教室は、全てパソコンが設備されている場所とは限らない。
そんな所は、自分のノートパソコン持参になる。
古くても機器やソフトが同じであれば、一通りの説明で済んだ。
しかし、持ち込まれたパソコンはメーカが違い、ソフトのバージョンが違うまちまちだ。
Vistaが有り、Xpが主流でMeがちらほら。
Office2000から2007があり、入っていないものもある。
“どうすりゃいいんだ 思案橋”講座の進め方に頭を悩ませられる。
仕方が無いからXpを中心に教習を進め、異なる時はその都度対応してゆく。
時間が掛かる。
「ここはWord2003の説明だから他の人は休んでてください。」
「今度は2007だよ。そのパソコンの人だけ操作してくださいね。」
パソコンバイリンガルである。
区別しながら説明しているが、聞く方はごちゃ混ぜで聞いてしまうから始末が悪い。
「アレー何でこうなるの。」素頓狂な声があがる。
考えられない結果が起きている。
「さっきの説明通りにしていたら、こうなってしまったんです。」
「貴方のソフトはWord2003だから、どこにも今の説明とは合わないんだよ。」
「だって、ここをクリックしてといってたわよ。」
「似ている所もありますが、20032007は違うんです。」
[元に戻す]をクリックして戻しの操作を教える。
何回かクリックしている内に、「あ、戻った」と、当人は大喜び。
その間、教習は中断しているから、素直には喜べない複雑な思いで次に進む。
「いいですか。自分のパソコンのOfficeは、2000なのか2003なのか叉は2007なのか、確かめて操作をしてください。」
「ハイ、ハイ。」と返事はいい。やれやれ、混合教室は疲れる。

セキュリティソフトは更に混乱である。
購入したまま試用セキュリティソフトの更新をしないでいる。
2年も3年も経っているから始末が悪い。
「パソコンを購入したお店でソフトを購入して、最新状態にして置くのがマナーです。」
「子供のお古でもそうしなければならんかね。」
それでも続くのは、元気にパソコンに取り組むやる気と、明るい笑顔に支えられて居るのかも知れない。がんばれ中高年!明日の未来は無いけれど。

2011年6月18日土曜日

カルガモの兄弟愛ーその後

雛カルガモの健気な行動その後であるが、F自動車会社のOBから会社に連絡してもらった。
どの様に処置されたか、今日行ってみたところ雛の姿は無かった。
しかし、どうして地表から4.50センチも深い水槽を住処としているのか、親鳥の行動が分らない。
雛たちを外敵からは守られるが、緊急事態になっても出られない場所である。
水槽だから天蓋は無く、日照、雨などを遮る物は無い。
46時中泳ぎ回って居なければならない。

自動車会社が西に拡張する前は一面の田圃で、田植え時期などは青々とした風景が広がっていた。
今でも当時の用水跡が住宅地の中に残っている。
大雨などの時には排水路となっているが、普段の手入れはされていないから発砲スチロールとか、落ち葉が堆積して堰き止められている状態である。
親カルガモには、そこで暮らしていた遺伝子が代々伝わり、習性でそこに来るようになっているのであろうか。
青々としていた田圃があった当時の記憶が、何の疑念も無くそこに引き寄せるのであろうか。
それでは余りにも悲しい習性である。
鮭が放流された場所が汚染されていても、忘れずに利根川を遡上して戻るのと同じなのか。

人間は、状況判断が出来るからそうした事にはならない。
経験則によって、危険から身を守る事が出来る。
と信じられてきた事が間違っていた事に気付かされたのが、原子力発電所の事故である。
広島や長崎に落とされた原子爆弾のエネルギーの基と、原子力発電のエネルギーの基は違うものであると理解していた。
例え同じ構成物質であるにしても、発電に使用する構成物質は安全で、例え事故が起きても放射能で汚染されるとは思っても居なかったし、そんな事の対策は日本の最先端技術で解決されていると盲目的に信じ、ほぼ無関心で原子力発電所から送られてくる電気を浪費していた。

そこには、カルガモの悲しい習性を哀れんでいる人間の愚かしさこそ、哀れむべきご都合主義なのかもしれない。
より以上の効率とか、発展とかを声高に唱え、世界経済から取り残される危機意識を煽り立てられて居たのが恥ずかしい限りである。

今こそ、家康の「不自由を常とおもへば不足なし」の精神を見直すべき時に有ると思う今日この頃であるが、本日もささやかに回転すし屋でマグロを食するのであった。
何処で?、無添加くら寿司でした。

2011年6月17日金曜日

カルガモの兄弟愛

朝夕の犬の散歩コースで、時たまF自動車工場の敷地を横切る。
数年前までは生産された新車で一杯となっていたが、今は従業員の駐車場として一部が利用されているに過ぎない。
だから一寸とした広場であり、珊瑚樹や椎木などが植林されて夏などは結構な木陰となり、犬の散歩にはよく利用されている。
その一角に工場排水の一時貯水槽が有り、2メートル高のフェンスで囲われている場所がある。
そこに毎年カルガモの親子が住み着き、緑色した排水の中を泳ぎ回って居る姿を目撃されていた。
今年も月端頃からか、親鴨と6羽の子鴨が泳ぎ回って居る睦まじい様子を見せていた。
水槽はコンクリート製で天場と水面との差が50センチほど有り、どの様にして中に入って行ったのか、何処で孵化して来たのか不明な事が多いのだが、何れにしても親鳥の後を6羽の子鴨がかわいい鳴き声をさせて泳ぎ回って居た。

4.5日雨が降っていたので犬の散歩も手抜きコースでしていたが、久し振りに回復したので工場の方まで足を伸ばし、鴨親子の様子見に出かけた。
子鴨だけ6羽が水槽の縁を廻っているだけで、親鴨の姿がそこには無かった。
餌でも摂りに留守にしているのか、と思いながら暫らく眺めていたが一向に戻ってこない。
人間が居るので警戒して近寄らないのかと考え、そこを離れる事にした。
翌夕、写真にでも納めて見ようかと再び出掛け水槽を見たら、なんと2羽しか泳ぎ回っておらず、4羽は死んでいるではないか。
親鴨は依然として留守である。

猫や、鼬などが寄り付ける所でもなく、親鴨は一体何処へ飛び去っていてしまったのか。
なぜ子鴨を見放してしまったのか謎が深まるが、餌が無い事ははっきりしているので急ぎ戻り、パンの切れ端を持って水槽の金網越しに投げ入れてやる事にした。
生き残っている子鴨1羽は、餌を求めて水槽の中を周遊しながら水の中に首を差し込んでは廻り、また、餌を求めていたが、パンの切れ端に気付くと此れ幸いと啄ばみ、一口、二口、三口と嘴でパン切れを食い千切り始めた。

暫らくして何を思ったのか、生きてはいるが元気が無く、死んだ4羽に寄り添うようにしていた1羽のところに近寄って行き、その子鴨の後に回りパン切れの方へ押してやっているではないか。
その様子は「あそこに餌があるよ」と、教えている様に見える。
しかし中々巧く行かず、そうこうしていると死んでいる子鴨にも同じ行動をしているのだ。
「おい起きて、餌があるよ」とでも言っているかのような行動を繰り返して居る。
写真はその情景スナップであるが、何処まで分って貰えるか遠景の上に、金網越しのシャッターのためはっきりしないが、それまで餌探しに周回していた子鴨がパンを啄ばんだ後で、元気の無い兄弟の後に回り、後押しをしてパン切れの方へ誘導しようとしている行動である。後が元気な子鴨である。
こんな鳥でも、餌を共有するのか、助け合うのかと、思わせる場面であった。

2011年5月29日日曜日

さくらとWPCひろせの皆さんへ

Mネットの活動も9年目となり、それなりに充実して来た事については先に述べたところだ。
しかし、初心者講座を毎年募集しているから講座を継続する場所が少なくなり、同時にMネットのサポート体制も限界が見えてきた事に伴い、サークルのサポートは6年限りとし、場所も生涯学習館を明け渡して貰う事にした。
この制度で独立して行ったサークルは既に6団体になる。

サークルで学習する人達も分かれ難い心境なのであろうか。
それでも継続して続けるとの事である。
自分達で問題や題材を持ち寄り、教え合うサークルになるらしい。
らしいと言うのは無責任な話に聞こえるが、時にテーマを決めて此方から出前講座を開催する事が有り、その場合は、特定の講師による運営をして居ないサークルに限定しているためである。

そうした講座からお別れ会ということで招待された。
「さくらクラブ」は、少人数ながら纏まったサークルで結構レベルが高い。
GoogleMailなども簡単に習得して、盛んに交信をしているらしい。

「WPCひろせ」も同時期に発足したサークルで、ここは大人数である。
一様に同じ様な事をしていたのだが、出来る人と出来ない人、その間に居る人と、なかなか大変なサークルであった。
しかし雰囲気はすこぶるよく、楽しいサークルであった。
教える事多かりき、忘れる事は更に多かりき。

これからの時代、パソコンを習っている事は決してマイナスにはならないと思う。
日常茶飯事的に「詳しくは、http://www.abc.co.jp/」にお問い合わせ下さい、とテレビやラヂオから流れてくる時代となってしまった。
インターネットをしない人は、情報の孤島に取り残されてしまう。

さくらの皆さん、WPCひろせの皆さん、情報化社会のロビンソンクルソーにならない様にしてください。
別れる事は辛いけど~、仕方が無いんだあ~後のため~♫、千昌夫の唄に替え、会場を後にした。

2011年5月28日土曜日

呆けも楽し、正気は苦し

2カ月に一度、美原記念病院で診察を受けている。
5年程前に眩暈を感じ、それ以来厄介になっている。
60日分の血圧の飲み薬と70枚の湿布薬を貰うために、2時間待ち5分診察を受けている。
この日も10時予約であるので9時半に受付をし、机の上に設置してある血圧測定器で測定し、順番を待っていた。
「コンちゃん暫らく」、と空いていた横にドッカと座ったのは一緒に退職したポン友である。
「やー暫らく。変わり無いかい?」
「ひと月に2回来ているンさ、それはそうと先日は悪かったいネ」
(?、ここ暫らくは逢っていないが、何だろう)
「出掛けたら道に迷って、気付いたら華蔵寺公園へ行ってしまい帰って来ちゃたんサ」
「何時の話?」
「ウン、先日サ」
「年金者の総会かい?」
「そうなんだよ、帰りに資料届けて貰って悪かったいネ」
「俺は欠席届を出して行かなかったよ」
「俺も行かない積もりだったんだけど、出掛けて行ったら道に迷って帰ってきたんサ」
「足が痺れているんで、あまり見良くないから今回は行くのを止めたよ」
「コンちゃん、何処が悪いんだい」
ここで話が合って来た。

それまでは、資料など届けていないのにお礼を言われたり、逢っても居なかったのに逢っていたかのような話で、脈絡が付かなかった。
「毎回母ちゃんと来ているんサ、医者の説明を聞いても直ぐに忘れてしまうんで」
「そうだよ、付き添って貰うのがいいんだよ」相槌を打つ。
「紙に書いてもらったて、その紙を何処に仕舞ったか忘れちゃて、大騒ぎするんだから」
「忘れる事はこの歳になれば誰でもあるよ。気にしない事だよ」
「そうだいネ。この間も、回覧板を回すのに何処へ持って行くか分らなくなって持ち帰ってきたんサ」
「イヤー俺なんかも、市民プラザでの集まりを文化会館と間違え行ってしまった事もあるよ」
こんな会話をしている間に、総会の資料を届けてもらった事の礼を3度・4度と繰り返すのだった。

認知症外来で来院していたのか。
誰かと間違えて居るが、顔は見知った顔なので時々話が正常になる。
彼とは、入職以来であるから40年近くになる付き合いであり、若い頃は南町を飲み歩き、赤線なども付き合った仲である。
退職後は、年に何回は行き来してグループ旅行などもしていたが、ここ1年近くは逢っていなかった。
昨年の忘年会は、赤石藩で開催したが来ていなかった。
グループ旅行などでも、宴会の最中に居なくなる事が有り、旅館の中を捜し歩いた事があった。
トイレに立って、帰りに迷っていたのだった。

小生もそんな事は有る。
旅館やホテルの造りも増設増設となっている処は、迷路の様になっている上にアルコールが入っている為、錯覚を起こす事がある。
一度などは、中からは開けられるが外からは開けられない階段室に間違って出てしまい、戻るに戻れず仕方なく最下段室まで降り、ようやくホテルの中に入り再び宴会場に戻った事がある。
この辺では、伊香保の「福一」がそうである。
南の建物棟の4階が、北棟では5階になっていたような気がする。

彼が迷っていたのも同じ様な造りで、廊下が曲りくねっていて、余程近くにトイレが無ければ目印を付けながら行かなければ戻るのが困難な造りであった。
それ以来彼が同席する宴会は、皆で気を付け合っていた。

しかし、朗らかなので安心した。
兎角自分が認知症などと宣告されると、気が滅入ってしまい無口になるようだが彼は違っていた。
明るく、覚束ない昔の記憶を繋ぎ合わせて喋っている。
きっと、思い出したくも無い記憶は消去され、今の今を楽しく暮らせているのだろうか。
そうであれば、忘れる事も必要であり、何よりも何時かは死ぬ事も忘れて暮らせるならば、忘却は高齢者にとって必要欠くべからざる生理現象である。

何時かは辿る道なれば、明るく、愛される呆け方をしたいものだ。
もしかして、この話は届けていたのが本当で、小生が忘れているのかもしれない。
ボケとはそういうことなのカも知れない。自分のした事、された事を信じて話しているのだから、そこには一点の疑問も生じないのではないか。

数日で6月である。
このブログも衣替えをします。文字も大きく高齢者向きにしました。

2011年5月21日土曜日

パソボラ・Mネット定期総会終了する

平成23年度で9回目となる定期総会を大分時期遅れとなったが開催する事が出来、全案件が承認された。
少人数、小規模とは言え一応組織的に活動し、金銭的出入りもある事から会計報告や監査報告をして承認を受け、本年度の予算も策定して1年の活動方針を定めてスタートする。

平成14年に発足した当時の予算規模は、会費2000円をメンバー7人が出し合い、14000円でボランティア保険に入り、諸費用を賄っていた。
従って、印刷用紙、インク代などは自己負担で、テキストを作成して受講者に配布していた。
プロジェクターなどは市の物を懇願して借り、返却しの繰り返しであった。

それが9年が経ちメンバーも30人弱となり、予算規模は200万円を超える額となった。
講座も14・5箇所で開催し、受講者270人前後を推移している。
それなりに責任も伴い、先ずメンバーの健康と安全、受講者に対しては最新の情報提供者であり、技能提供者でなければならない。

借り歩いたプロジェクターは所有4台、パソコンに至ってはVista4台、Windows7を5台を持つ組織となったのである。
何をそこまでするのか、する必要があるのか明確なものがあるわけではないが、発足理念として
パソコン操作技能を身に付けた中高年者(以下、会員という。)が、相互の技能向上と交流親睦を図りながら、地域情報技術の活性化及びパソコン操作初心者支援のため無償で労力を提供することを目的に結成し、和と奉仕を基調として福祉の向上に寄与するものとする。
分かりそうで意味不明な創立趣意書である。
まあ、紆余曲折があったが、空中分解せずにここまでやって来た。

最大の懸案事項は老齢化である。
組織の平均年齢71歳、当然超えているメンバーが10人も居り、最高齢者は80歳である。
東国原さんではないが、「どうにかせんにゃならん」所に来ている。
ボランティア養成講座を開催して、若い血を輸血しなければ早晩高齢化集団となってしまう事は明白である。
今年の3月9日に開催したシニアパソコンフォーラムでの記念写真を紹介します。

縮小してあるので、皺や白髪は見えないと思いますが、この集団がAv71歳なのです。
まだまだ若いと煽てられて頑張っています。

最前列右から丹野さん、福島さん、大和さん、茂木さん、高橋さん、戻って金沢さん、近藤さん、夢見亭わっぱさん、野島さん、遊佐さん、戻って板垣さん、川端さん、佐々木さん、高橋さん、多賀谷さん、星野さん、早野さん、中野さん、桑原さん、友永さん、関口さん、須田さん、戻って最後列が大村さん、横沢さん、中島さん、高橋さん、高橋さん、井野さん、中島さん、菊池さんと、
細野さんが途中欠場です。
以上、30人の老骨鞭打ち集団です。

2011年3月13日日曜日

第8回シニアパソコンフォーラム開催

平成16年に第1回を開催し、場所は伊勢崎市福祉プラザの研修室を3部屋の間仕切りアコーディオンカーテンを開扉してのものであった。
70人ぐらいの参加者であったが、参加者を集めるのが大変で、あちこちにポスターを貼り、勧誘チラシを配り、口コミで人集めをした事が懐かしい。
人数が確保できたら駐車場の確保で、信用金庫の職員用を借用したり、人伝で空き地を臨時駐車場とした。
何れにしても最初の事なので人集め、駐車場確保、インターネット回線の臨時引き込み、発表者の依頼等、使えるだけのコネを使い、東奔西走した事が思い出される。

その後、市民プラザ、文化会館大会議室で2回開催し、小ホールへ移り4回目の開催となった。
思えばよくここまで来たものと感慨深いものがある。

毎回のテーマをどうするかで頭を使い、講師の交渉をしているが、今回はインターネットのセキュリティ対策を啓発しようと講師交渉をしたが、何時もの根岸女史は家事都合で駄目になり、それではと言う事でNHKの講座にも顔を出した事のある渡部章様に懇請して内諾が得られたが、メールの連絡が途絶えてしまい断念。
そこで窮余の策として日本ネットワークセキュリティ協会のホームページから、インターネット安全教室のデータを借用する事になった。
ホームページの動画をダウンロードして使用する積もりであったが、画質が悪く上映出来る物ではなかった。
そこで同協会に掛け合い、DVDの借用とチラシの提供を受ける事が出来、初めてのDVD上映となった。
しかし1時間程度のものであり、残り1時間30分をどうするかで気付いたのが消費生活センターである。
幸いセンターの所長が後輩で有り、気安く相談出来たのがラッキーと言うべきであった。
高齢者を取り巻く詐欺商法や振り込め詐欺の防止対策としてテーマ設定をする事にした。
こう書くと、なんか場当たり的に物事を決めているようであるが、その通りである。
あれが駄目なら此方では、此方が駄目ならあれにしようと思いつくまま、駄目もとのプロセスで進行している。

講師にお金を掛けられるなら苦労はしないのだが、社会福祉協議会からの助成金と財団法人長寿社会づくり財団の支援で開催し、Mネットの貧弱な懐から捻出しているから講師の範囲が狭められてくる嫌いがある。

そんな訳で消費詐欺防止啓発をして活動している「夢見亭わっぱ」師にお願いする事になり、前回と同じお笑いがアトラクションとなった。
考えてみれば前回の「三遊亭ぬう生」師も同様で、聴いたことの無い落語家にお願いするのだから、原野商法に似た交渉をしているようなもので、来るか来ないか保証も無く、面白いか、参加者の好みに合うかどうかもわからないまま本番を迎えている。

こうして開催しているフォーラメであるが、Mネット30人のメンバーも慣れない人集めで気を使い、無理難題、理不尽な言動をする老人が居るからなお更の事である。
今回は340人分用意した印刷物がほぼ配布し切ったので来場者は300人と算出した。
まあまあ人数的には成功したと思うが、いろいろ反省改善して行かなければならない事もある。
マンネリ化しないためにも、新趣向を考えて行かなければならない時期に来ている。

2011年1月29日土曜日

元NHKアナ吉川精一氏の講演を聴く

 今年もテレコム利用セミナーが有り、市民プラザへ出掛けた。
NTT東日本群馬支店後援となっているが全てを仕切っており、主催団体の財団法人日本電信電話ユーザー協会伊勢崎地区協会は名義貸しの様な立場で参加している様な印象である。

そもそもこの団体は日本全国をくまなく組織し、群馬県も市部を中心に12地区協会が商工会議所が核となって企業を会員として構成されている。
目的は、電信電話の民営化に伴い、KDDIやソフトバンクなどの新興勢力からこれまでのユーザーを繋ぎ止めるための組織防衛を目的に活動をしているとの事である。

閑話休題
講師の人となりは省略し、講演のテーマ「いいありがとうには素晴らしい力が有り いい出会いに感謝」についての雑感を述べたい。

NHK当時の出会い、エピソード、退職後の心境などが90分に亘って述べられた
90分と言う時間を長く感じさせず、声量も豊かで流石にアナウンサーと感心させられた。
その中で、講演の中心部分は、のど自慢大会の司会をしていた当時に出会った一こまを感動的に紹介し、そこから敷衍した話である。
大筋は、女手一つで育てられた娘さんが、嫁ぎ行く心境をのど自慢大会で歌う「こすもす」に託し、感謝の思いを母親に捧げると言うものであった。ここからが泣ける所であるが省略。

多分に作り話的なものであるが、しかしながら人間が生きて行く上で人の世話にならないで生きて行く事出来ず、特に母親は子供にとって永遠に母親であり、母親から見る子供は何時までも自分の腹を痛めて出来た子供である。
母性は悪事を働いた子でさえも必死に庇い、自らの命に代えても守る様に出来ている。
ましてや今こうして生きていられる事も、親からの引き継ぎで有り、幾多の人のお世話になりながら命を永らえている。
それは日常の感謝で有り、不特定多数の人達への報恩の心が今求められていると、吉川氏は提言したものと受け止めた。

その点では、パソ爺のボラ活も大なり小なりその理念が有って活動していると自負している。
自分自身、紆余曲折の果てに今日が有り、そして倹しくも日々過ごせて行けるのは幾多の人に支えられ来た賜物のお陰である。
だから、余生は万分の一でもお返しをしてから旅立ちたいものと思い、浅学非才をも省みずパソコン教習ボランティアの真似事をしている。

吉川精一氏の講演から感じた思いでした。

2011年1月17日月曜日

気難しいパソコンの続報

Hpパソコンのインターネット不具合について、本日接続のチャンスを与えた。
受講者は15人で、皆さんそれぞれ接続したので不肖のHpを接続して見た。
どうした事か、開くでは無いか。
すんなりGoogleのトップ画面が表示されたのである。

講座もすんなり進み、語彙検索とカテゴリー検索の違いを体験し、最後は群馬県の感染症発生状況を見て貰った。
どの地域にインフルエンザが多いか、ノロウイルスの多発地域は何処か、インターネットならではの情報を収集し、パソコンを勉強して地域の物知りとして役立って貰いたい事を話す。
要らぬお節介であったろうか。

しかし、何故に先週は接続不能を繰り返したのか、今日は何処をどう弄った訳でもないのに接続した。
これが電子機器の電子機器たる所以なのか。

前回から本日までの間にHpに手を加えた処は、XpからWin7にした為サウンドデバイスがサポート外になり、音が出なくなっていたのをUSBサンドデバイスを取りつけ、ミニスピーカを取りつけて再生させた事だけである。

此れも面白い話がある。
先日の役員会でこの問題を持ち出したら、殆どの人が復活出来ないとの意見で有った。
小生はそれまでにインターネットを通してこうした事例を探し、復活方法が無いのか調べて置いたから事前の知識は有った。
パソコンにインターホンを取り付け、音が出なければ駄目だとか、サウンドデバイスはオンボードに取り付けられたものであるからWin7との相性が悪ければ救済方法は無いとか、いろいろ助言し、最終的には廃棄したらという意見まで出た。

USBサウンドデバイスの紹介はインターネット上に有ったが、実際の所半信半疑で機器を購入して駄目であった時の無駄な出費を考え二の足を踏んでいた。
皆がダメ出しをすると、何故か復活させてやろうという気になるのが小生の天邪鬼たる所以だ。
出来の悪い子ほど可愛いの例えが有るように。

インターネットで知り得た生半可の知識で、「パソコンラウンド21」に持ち込んで見た。
最初は話が通じなくて半ば諦めの気持ちになって居た所に、ベテランの店員(何故か丸坊主)が来てくれてスピーカだけじゃ駄目でUSBデバイスを取り付け、そこにスピーカを取り付ければ外部から音が出せる事が判明した。
win7が起動する時に鳴る「ピロピロン」という音が出た時は感激した。
聾唖者が言葉を発生した時の様な衝撃を感じた。

まあそんな事があり、今では石原裕次郎と矢代亜紀のCDを音色良く再生している。

だから今日のインターネットの接続になったのであろうか。
廃棄処分を免れた感謝であろうか。
そう思いたい、と思うのはパソ爺のセンチメンタリズムでしょうか、物を大事にしたい気持か、それは分からない。

2011年1月14日金曜日

気難しいパソコン

Mネットが発足して直ぐに、なけなしのネット会計から捻出してパソコンを購入した。
Hpのノートパソコンで、XpのOSが入っているがOfficeは付いておらず4万円ぐらいで購入したと記憶している。
講師用に使用していたが、学習館のパソコンがVISTAに入れ替わり、用済みとなってロッカーで眠っていた。
それをハード研修会の教材にして、分解してから廃棄処分する事に決まり、専門家に見て貰ったらメモリの増設と、WIN7OEMの付いたハードディスクに入れ替えて見事に生まれ変わってしまった。
OfficeはWebAppriで2010を無料ダウンロードし、セキュリティもMSのエッセンシャルをインストールして万全の体制になった、と思っていた。
しかし、新品のパソコンの様には行かない事に気づかされた。
先ず、サウンドデバイスが認識されず、音が出ない。
沈黙の世界である。
その上、PDFソフトが無くファイルが開けない。
何より参ったのは、絣の郷に持参してインターネット接続しようとしても通信不能でインターネットの講座が進まなくなってしまった。
受講生のパソコンは全員接続して居るのに、講師パソコンは「Internet Explorerでは開きません」とのコメントが続き、とうとう最後まで使えず仕舞いで終了。
家で接続して見れば何とも無く表示されるではないか。
人見知りと言うか、他所の環境に合わないと言うか、気難しいパソコンで有る。
しかし可愛いパソコンなのだ。
Mネットの発足当時から使い、あらゆる場面で用を足してくれたパソコンで有り、それも一旦廃棄決定をして蘇ってくれたパソコンで有り、大事に使いたいと愛着が募る。
しかしながら、先日の様な気難しい態度を取り続けるとなれば話は別である。
使い物にならないレッテルを貼られ、再び廃棄の道が待っている事になる。
その様にならないようにあれこれいじりまわしているが、素人の悲しさ原因が分からない。
出来る事は、もう一度絣の郷で機会を与えて見る事にする。