2011年5月29日日曜日

さくらとWPCひろせの皆さんへ

Mネットの活動も9年目となり、それなりに充実して来た事については先に述べたところだ。
しかし、初心者講座を毎年募集しているから講座を継続する場所が少なくなり、同時にMネットのサポート体制も限界が見えてきた事に伴い、サークルのサポートは6年限りとし、場所も生涯学習館を明け渡して貰う事にした。
この制度で独立して行ったサークルは既に6団体になる。

サークルで学習する人達も分かれ難い心境なのであろうか。
それでも継続して続けるとの事である。
自分達で問題や題材を持ち寄り、教え合うサークルになるらしい。
らしいと言うのは無責任な話に聞こえるが、時にテーマを決めて此方から出前講座を開催する事が有り、その場合は、特定の講師による運営をして居ないサークルに限定しているためである。

そうした講座からお別れ会ということで招待された。
「さくらクラブ」は、少人数ながら纏まったサークルで結構レベルが高い。
GoogleMailなども簡単に習得して、盛んに交信をしているらしい。

「WPCひろせ」も同時期に発足したサークルで、ここは大人数である。
一様に同じ様な事をしていたのだが、出来る人と出来ない人、その間に居る人と、なかなか大変なサークルであった。
しかし雰囲気はすこぶるよく、楽しいサークルであった。
教える事多かりき、忘れる事は更に多かりき。

これからの時代、パソコンを習っている事は決してマイナスにはならないと思う。
日常茶飯事的に「詳しくは、http://www.abc.co.jp/」にお問い合わせ下さい、とテレビやラヂオから流れてくる時代となってしまった。
インターネットをしない人は、情報の孤島に取り残されてしまう。

さくらの皆さん、WPCひろせの皆さん、情報化社会のロビンソンクルソーにならない様にしてください。
別れる事は辛いけど~、仕方が無いんだあ~後のため~♫、千昌夫の唄に替え、会場を後にした。

2011年5月28日土曜日

呆けも楽し、正気は苦し

2カ月に一度、美原記念病院で診察を受けている。
5年程前に眩暈を感じ、それ以来厄介になっている。
60日分の血圧の飲み薬と70枚の湿布薬を貰うために、2時間待ち5分診察を受けている。
この日も10時予約であるので9時半に受付をし、机の上に設置してある血圧測定器で測定し、順番を待っていた。
「コンちゃん暫らく」、と空いていた横にドッカと座ったのは一緒に退職したポン友である。
「やー暫らく。変わり無いかい?」
「ひと月に2回来ているンさ、それはそうと先日は悪かったいネ」
(?、ここ暫らくは逢っていないが、何だろう)
「出掛けたら道に迷って、気付いたら華蔵寺公園へ行ってしまい帰って来ちゃたんサ」
「何時の話?」
「ウン、先日サ」
「年金者の総会かい?」
「そうなんだよ、帰りに資料届けて貰って悪かったいネ」
「俺は欠席届を出して行かなかったよ」
「俺も行かない積もりだったんだけど、出掛けて行ったら道に迷って帰ってきたんサ」
「足が痺れているんで、あまり見良くないから今回は行くのを止めたよ」
「コンちゃん、何処が悪いんだい」
ここで話が合って来た。

それまでは、資料など届けていないのにお礼を言われたり、逢っても居なかったのに逢っていたかのような話で、脈絡が付かなかった。
「毎回母ちゃんと来ているんサ、医者の説明を聞いても直ぐに忘れてしまうんで」
「そうだよ、付き添って貰うのがいいんだよ」相槌を打つ。
「紙に書いてもらったて、その紙を何処に仕舞ったか忘れちゃて、大騒ぎするんだから」
「忘れる事はこの歳になれば誰でもあるよ。気にしない事だよ」
「そうだいネ。この間も、回覧板を回すのに何処へ持って行くか分らなくなって持ち帰ってきたんサ」
「イヤー俺なんかも、市民プラザでの集まりを文化会館と間違え行ってしまった事もあるよ」
こんな会話をしている間に、総会の資料を届けてもらった事の礼を3度・4度と繰り返すのだった。

認知症外来で来院していたのか。
誰かと間違えて居るが、顔は見知った顔なので時々話が正常になる。
彼とは、入職以来であるから40年近くになる付き合いであり、若い頃は南町を飲み歩き、赤線なども付き合った仲である。
退職後は、年に何回は行き来してグループ旅行などもしていたが、ここ1年近くは逢っていなかった。
昨年の忘年会は、赤石藩で開催したが来ていなかった。
グループ旅行などでも、宴会の最中に居なくなる事が有り、旅館の中を捜し歩いた事があった。
トイレに立って、帰りに迷っていたのだった。

小生もそんな事は有る。
旅館やホテルの造りも増設増設となっている処は、迷路の様になっている上にアルコールが入っている為、錯覚を起こす事がある。
一度などは、中からは開けられるが外からは開けられない階段室に間違って出てしまい、戻るに戻れず仕方なく最下段室まで降り、ようやくホテルの中に入り再び宴会場に戻った事がある。
この辺では、伊香保の「福一」がそうである。
南の建物棟の4階が、北棟では5階になっていたような気がする。

彼が迷っていたのも同じ様な造りで、廊下が曲りくねっていて、余程近くにトイレが無ければ目印を付けながら行かなければ戻るのが困難な造りであった。
それ以来彼が同席する宴会は、皆で気を付け合っていた。

しかし、朗らかなので安心した。
兎角自分が認知症などと宣告されると、気が滅入ってしまい無口になるようだが彼は違っていた。
明るく、覚束ない昔の記憶を繋ぎ合わせて喋っている。
きっと、思い出したくも無い記憶は消去され、今の今を楽しく暮らせているのだろうか。
そうであれば、忘れる事も必要であり、何よりも何時かは死ぬ事も忘れて暮らせるならば、忘却は高齢者にとって必要欠くべからざる生理現象である。

何時かは辿る道なれば、明るく、愛される呆け方をしたいものだ。
もしかして、この話は届けていたのが本当で、小生が忘れているのかもしれない。
ボケとはそういうことなのカも知れない。自分のした事、された事を信じて話しているのだから、そこには一点の疑問も生じないのではないか。

数日で6月である。
このブログも衣替えをします。文字も大きく高齢者向きにしました。

2011年5月21日土曜日

パソボラ・Mネット定期総会終了する

平成23年度で9回目となる定期総会を大分時期遅れとなったが開催する事が出来、全案件が承認された。
少人数、小規模とは言え一応組織的に活動し、金銭的出入りもある事から会計報告や監査報告をして承認を受け、本年度の予算も策定して1年の活動方針を定めてスタートする。

平成14年に発足した当時の予算規模は、会費2000円をメンバー7人が出し合い、14000円でボランティア保険に入り、諸費用を賄っていた。
従って、印刷用紙、インク代などは自己負担で、テキストを作成して受講者に配布していた。
プロジェクターなどは市の物を懇願して借り、返却しの繰り返しであった。

それが9年が経ちメンバーも30人弱となり、予算規模は200万円を超える額となった。
講座も14・5箇所で開催し、受講者270人前後を推移している。
それなりに責任も伴い、先ずメンバーの健康と安全、受講者に対しては最新の情報提供者であり、技能提供者でなければならない。

借り歩いたプロジェクターは所有4台、パソコンに至ってはVista4台、Windows7を5台を持つ組織となったのである。
何をそこまでするのか、する必要があるのか明確なものがあるわけではないが、発足理念として
パソコン操作技能を身に付けた中高年者(以下、会員という。)が、相互の技能向上と交流親睦を図りながら、地域情報技術の活性化及びパソコン操作初心者支援のため無償で労力を提供することを目的に結成し、和と奉仕を基調として福祉の向上に寄与するものとする。
分かりそうで意味不明な創立趣意書である。
まあ、紆余曲折があったが、空中分解せずにここまでやって来た。

最大の懸案事項は老齢化である。
組織の平均年齢71歳、当然超えているメンバーが10人も居り、最高齢者は80歳である。
東国原さんではないが、「どうにかせんにゃならん」所に来ている。
ボランティア養成講座を開催して、若い血を輸血しなければ早晩高齢化集団となってしまう事は明白である。
今年の3月9日に開催したシニアパソコンフォーラムでの記念写真を紹介します。

縮小してあるので、皺や白髪は見えないと思いますが、この集団がAv71歳なのです。
まだまだ若いと煽てられて頑張っています。

最前列右から丹野さん、福島さん、大和さん、茂木さん、高橋さん、戻って金沢さん、近藤さん、夢見亭わっぱさん、野島さん、遊佐さん、戻って板垣さん、川端さん、佐々木さん、高橋さん、多賀谷さん、星野さん、早野さん、中野さん、桑原さん、友永さん、関口さん、須田さん、戻って最後列が大村さん、横沢さん、中島さん、高橋さん、高橋さん、井野さん、中島さん、菊池さんと、
細野さんが途中欠場です。
以上、30人の老骨鞭打ち集団です。