2012年8月19日日曜日

子在り 遠方より来たり

子在り 遠方に住む
彼の地にありて 故郷を懐かしむ
故郷に 旨き蕎麦処あり
蕎麦処 止む事を知る


幼き日 蕎麦処に入りぬ
その味 忘れ難く
遠く離れて 記憶蘇えり
寸刻を割き 舞い戻り食さん






故郷に 名峰赤城山座し
彼の地に 阿蘇あり
何れの山岳 甲乙点け難く
食する味も また同じなるや























2012年8月9日木曜日

マグレ人生 その2

マグレもそう度々ある訳でなく、殆ど運を使い果たしたような高校生活であった。

卒業真近になると進学組は大学模擬試験に、就職組は就職試験対策一辺倒となる。

就職難時代の卒業だったから求人募集は殆ど無し。
勢い公的なものにしか受験する機会が無い。
国鉄、電電公社、防衛大、私鉄会社等であったが、4戦全敗で防衛大などかすりもしなかった。
私鉄の場合は、面接を東京まで行っての落選だから、電車賃を使わされたに過ぎない。
決まる同年生はどんどん決まって行くのだから、ここで実力の差というものが出て来るのであろう。

国家公務員4級職と言うものがあった。所謂ノンキャリアの入り口である。
税務職と郵政職と有ったが、ご近所にエリート高校卒の方が税務職として合格していた事を知り、身の程も弁えず受験について教えを乞うたのである。
普段はお付き合いが無く、尋ねられた方でも迷惑で有ったに違いない。
しかし親切に受験参考書を貸して頂き、それを参考にしなさいと渡された。
受験日が迫って居り、腰を落ち着けて勉強している暇は無く、焦りから本の紙面を上滑りしているに過ぎない。
そうした絶体絶命の境地から見つけた方法があった。
試験問題は100問以上出題されるが、5択方式で正解項目に傾向がある事に気付いた。
試験当日は、分からなければその傾向項目を選択し、分かるのもだけを解答して行く消エネ解答に徹し、質より量の解答を心掛けたのである。
まさに、窮鼠猫を咬む、の例えを地で行ったのだ。
関東甲信越地区から7,000人以上の高校生が、鎬を削ったサバイバル試験で有った。
我が校から2人合格し、吾輩もその1人としての栄誉に浴したが採用はされず、暫くはルンペンを余儀なくされた。

傾向と対策解答を見抜かれたのであろうか、試験官の目は欺けない事を痛感した。



マグレ人生 その1

「まぐれ」を辞書で調べると、「偶然とか予期しない結果」と出ている。

小学高学年の頃、村内と言うより地域単位の集落でお祭りがあった。
子供相撲大会が有り、2,30人程集まって開催されたが、昭和20年代は今と違い子供がうようよいた時代である。
学年別の取り組みで無く、身長順に並べさせられて組み合わせを決めて行くのだ。
体格の良い上級生の隣に並ばされた為、必然的にその子との対戦になった。
今から思えば、吾輩を勝たせない為に大人達の偏見と依怙贔屓でそうさせた様な気がしてなら無いのだが、取り組みの番となってしまった。
自信満々の相手に対し、身長は有ったが肉付きの悪い、有り体に言えばひ弱な力士である。
軍配が返って、猛然と突進してくる相手に対しヒョイと変わり、横から押し出してしまった。
番狂わせで、組み合わせをした例の大人も唖然として居た事を思い出す。
しかし、その後は悲惨で何事にも件の上級生に意地をされ、卒業するまで続いていた。
今時のいじめで有ったろうか、とんだハプニングが人生の実力を知らされる事になったのである。

高校入試の時もそんな事があった。
前夜来の大雨で、利根川の対岸に位置している島村中学からの受験生が欠席と言う事になってしまった。
前の席が殆ど空いていると言う、異常な空気での試験で有った。
そんな中でも試験が始められたが、自信を持って解答出来た問題は極少なく、何がなんだかわからない状態で終了した。
合格発表の日が来て新聞に名前を見つけた時は正直嬉しかったが、其処で飛んだ誤解を生む事になった。
島村中学からの受験生が欠席した為、発表が吾輩の名前からとなってしまった。
それを見た近所の年寄り達が一番で合格したと受け止め、学校の登下校で行き会うたびに称賛の言葉を掛けられる事となってしまった。
この為、出歩くのが嫌になってしまい、人目を避ける様に暫くはこそこそ歩く始末であった。
それも時間と共に解決し、それ程でもない事を世間に知らしめる事になった。

入学して最初の国語の時間で抜き打ちテストが行われた。
何でも担当教師は入学試験の結果は信用していないらしく、自分で問題を作成して新入生の学力レベルを知るために行っているとの事であった。
確かに学校では教えない、入試問題にも出無い設問であったが、入試勉強より文庫本を読んで居た吾輩としては比較的楽勝であった。
トップ10に入ってしまったのである。
一躍注目される存在となったが、その後の中間試験、期末試験などで順位が発表されるに従い馬脚が現われてしまい、同級生から「あれはマグレだったんだ。」と、からかわれの対象となってしまった。
トップ10になった時に、それを起爆にして勉学に勤しめば良かったものをと、後悔先に立たずの例えに気付くのが遅すぎた様である。


2012年8月4日土曜日

ラーメン店、栄枯盛衰

長寿庵閉店の記事「美味い処の灯が消える」が話題となったので、ラーメンの思い出を手繰って見たい。昭和30年代はラーメンとは呼ばないで、支那そばと言っていた。
その頃の町名を新町と言い、現在の大手町22街区の駅からの大通りに面して支那そば屋があった。
「桃華軒」と言う奥に長い店であったように記憶している。
何しろ45年前の記憶であるから定かではないが、当時は味の良い評判の店であった。
旧市役所が在った周辺には「大村そば店」、少し離れて「あやめや」、朝7頃から失業対策事業に従事する労働者の朝飯を食べさせる「早起き食堂」、突き当たりに「第三角屋」などがあり、それを素通りして「桃華軒」まで出掛けていた。
注文は支那そばである。
それをそそくさと食べ、昼休みの終わる時間までに戻らなければならないから結構忙しい昼食であった。
今風に言えば「醤油ラーメン」であった。

その北隣が、「利休」と言う居酒屋で、升に入れた茶碗になみなみと溢れる程に注いで呉れる酒が人気で、退庁後は同業人種で一杯になっていた。
その頃は焼酎ではなく合成酒と言われた酒で、結構悪酔いするものであった。
安月給の代名詞ともなっていた職種であるから、飲んべー達は安くて多く飲める所に足が向いていたのである。

あれだけ繁盛して居た店であったが、ほどなく閉店し隣の居酒屋も閉業してしまった。
人の流れが少しずつ変化して来て居たのかもしれない。
昼だけの売り上げでは採算が取れず、「桃華軒」も「利休」も人々の記憶から忘れ去られてしまった。
赤提灯を求めて辿りついたのは、江戸幕藩時代には裏町と言われていた宮元町、現在の街区では三光町8街区本光寺大門脇の屋台「菊水」であった。
爺さんと年頃の娘二人での営業で冬場は北風を防ぐシートが張られたが、足元から吹き込む寒風は容赦なかった。
夏場はよしずを立て掛けたものであった。
その北に鎮座する伊勢崎神社の南口に、ラーメンの屋台が出ており小腹が空いた酔っ払いが利用するのだが、何故か飲んだ後のラーメンが美味い。
当時は、こんな酔客を相手にするラーメン店が当時の南町三丁目、現在の緑町界隈にかなりあったが、今では数軒有るか、無しかである。

伊勢崎は四方八達の往還が有る。
本庄県道、高崎県道、前橋県道、大胡県道、大間々県道、桐生県道、足利県道、太田県道と県内主要都市への道路が8本通じており、交通の要衝とも言える街である。
その出入り口に当たる場所に新商圏が発達し、中心街商店の衰退に拍車を掛けている、所謂郊外店の進出で有る。
その郊外店群に必ずあるのがラーメン店である。
激辛とか、上州とかの屋号店が元気が良いが、立ち寄った事がない。
ああしたお店は掛け声ばかり大きく、マニュアルで作られて居る様な気がしてならず、熟練技を駆使した感じがしないので敬遠している。
大型店のテナントとしての食事処も、大方同じである。

この8月19日で閉店する長寿庵のブログを紹介します。
誠に惜別の情を禁じえません。
http://yaplog.jp/sakuramou3sai/archive/3186