2012年8月4日土曜日

ラーメン店、栄枯盛衰

長寿庵閉店の記事「美味い処の灯が消える」が話題となったので、ラーメンの思い出を手繰って見たい。昭和30年代はラーメンとは呼ばないで、支那そばと言っていた。
その頃の町名を新町と言い、現在の大手町22街区の駅からの大通りに面して支那そば屋があった。
「桃華軒」と言う奥に長い店であったように記憶している。
何しろ45年前の記憶であるから定かではないが、当時は味の良い評判の店であった。
旧市役所が在った周辺には「大村そば店」、少し離れて「あやめや」、朝7頃から失業対策事業に従事する労働者の朝飯を食べさせる「早起き食堂」、突き当たりに「第三角屋」などがあり、それを素通りして「桃華軒」まで出掛けていた。
注文は支那そばである。
それをそそくさと食べ、昼休みの終わる時間までに戻らなければならないから結構忙しい昼食であった。
今風に言えば「醤油ラーメン」であった。

その北隣が、「利休」と言う居酒屋で、升に入れた茶碗になみなみと溢れる程に注いで呉れる酒が人気で、退庁後は同業人種で一杯になっていた。
その頃は焼酎ではなく合成酒と言われた酒で、結構悪酔いするものであった。
安月給の代名詞ともなっていた職種であるから、飲んべー達は安くて多く飲める所に足が向いていたのである。

あれだけ繁盛して居た店であったが、ほどなく閉店し隣の居酒屋も閉業してしまった。
人の流れが少しずつ変化して来て居たのかもしれない。
昼だけの売り上げでは採算が取れず、「桃華軒」も「利休」も人々の記憶から忘れ去られてしまった。
赤提灯を求めて辿りついたのは、江戸幕藩時代には裏町と言われていた宮元町、現在の街区では三光町8街区本光寺大門脇の屋台「菊水」であった。
爺さんと年頃の娘二人での営業で冬場は北風を防ぐシートが張られたが、足元から吹き込む寒風は容赦なかった。
夏場はよしずを立て掛けたものであった。
その北に鎮座する伊勢崎神社の南口に、ラーメンの屋台が出ており小腹が空いた酔っ払いが利用するのだが、何故か飲んだ後のラーメンが美味い。
当時は、こんな酔客を相手にするラーメン店が当時の南町三丁目、現在の緑町界隈にかなりあったが、今では数軒有るか、無しかである。

伊勢崎は四方八達の往還が有る。
本庄県道、高崎県道、前橋県道、大胡県道、大間々県道、桐生県道、足利県道、太田県道と県内主要都市への道路が8本通じており、交通の要衝とも言える街である。
その出入り口に当たる場所に新商圏が発達し、中心街商店の衰退に拍車を掛けている、所謂郊外店の進出で有る。
その郊外店群に必ずあるのがラーメン店である。
激辛とか、上州とかの屋号店が元気が良いが、立ち寄った事がない。
ああしたお店は掛け声ばかり大きく、マニュアルで作られて居る様な気がしてならず、熟練技を駆使した感じがしないので敬遠している。
大型店のテナントとしての食事処も、大方同じである。

この8月19日で閉店する長寿庵のブログを紹介します。
誠に惜別の情を禁じえません。
http://yaplog.jp/sakuramou3sai/archive/3186

1 件のコメント:

  1. 菊水は、私も若い頃はよく行きました。昭和50年代の頃ですが。当時は高度成長期で皆よく飲み歩いたものでした。酒を飲んだ後は、先生と同様、必ず近くラーメン屋に寄って帰るのがお決まりのコースでした。今は飲み歩くことが無くなり、たまにチェーン店のラーメン店にいくぐらいです。時代の変化でしょうか、ラーメン店に限らず、様々な分野で熟練の人達が退いていくにつれ、手作りの人間性を感じさせるものがなくなり、機械的な非人間的なものが広がっているのが、寂しく感じられます。

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