2011年11月30日水曜日

犬の顔

我が家に柴犬もどきが居る。
いわゆる雑種犬である。名前は雌犬にも拘らず「コロ」。
貰って来た当座は小さく、可愛い犬であったが、今では中型犬で力が強く、良く吠えるから番犬として役に立っている。
孫にいびられているから、顔付きに似合わず性格は大人しく、見知らぬ子供に頭を撫でられたしても、じっと座っている。

それにしても、動物は同系種であれば、毛並みは勿論、顔まで同じで見分けがつかない。
犬にしても、人間が改良を加えて種種雑多な犬を作りだしたが、同系種の犬は体系から毛の色、鳴き声までほぼ同じである。
例えば、柴犬で目が細いとか、たれ目だとかの差異はない。
鼻が低いとか、団子鼻という犬も居ない。
性格は育てられ方によって、気性が荒いとか、おとなしいとかの違いはあるが・・・、猟犬として作られたポインターはそれなりに獲物のハンターとして活躍する。
人間はどうであろうか。
白人、黄色人、黒人と大雑把に分けられるが、黄色人である日本人は南方系と北方系とに分かれるらしい。
DND鑑定で鑑別が出来るそうである。
しかし、日本人で、且つ南方系と仕分けられていても、顔はばらばらである。目つきが違い、鼻の形、顔かたちなどなど、千差万別の体系でもある。
づんぐり、むっくりもいれば、長身、スリムと様々である。
交配のし過ぎで、いろいろな血が混ざりあったため、いろんな造形が出来てしまったのであろうか。
子供にしても同じような事があり、親に似つかぬ子供がいる。
どうしてあんな顔をした夫婦にこんな美系が誕生したのかとか、美系の奥さんが連れている子の顔が不細工この上ない顔とかにお目に掛かる。
整形でもしたのかと、疑って見る事がある。
概して子供は祖父母に似ると言われているのが、全てに似ていなければ先祖に居たのであろうか。

要は、「コロ」の顔をつくづく見ていた感想である。

こんな歌詞がある。
「地球の仲間」
僕は人間 君は動物
見たとこ少し違うけど
心の中は同じだ
心の中は同じだ
さみしい事も知っている
うれしい事も知っている
・・・・・・・

僕は動物 君は人間
言葉は少し違うけど
心の中はかよいあう
心の中はかよいあう
一緒に笑う時もある
涙をこぼす時もある
・・・・・・・

長雨になると散歩に行けず、糞の処理が大変である。
犬が糞する仕草は面白い。
枯葉が有るか、枯れ草が寄せ集められている場所が多い。
慌ただしく2・3回クルクル回りだし、足で地面を掻きだす。
掻きだした所に排泄するかと思えば、微妙に位置がずれている。
排泄中は、チラと飼い主である小生の顔を盗み見している。
申し訳ないとでも言っているのか、恥ずかしい姿を見られているので様子を窺っているのであろうか。
そんな時は、あらぬ方を見て居る事にしている。

養護老人ホームに犬を連れて行き、痴呆気味の高齢者に接触させていると痴呆が改善されたとの話を聞く。
犬は癒しである。
優しい気持にもしてくれるのが犬である。
しかし、老衰した犬の面倒を見るのは大変である。
食べ物も入らず、排泄もままならず、ただ横たわったままの犬を介護するのは人間の介護以上との事。
犬に死なれるとペットレス症候群になり、精神状態が不安定になる女性もいるらしい。
遺影を部屋の床の間に置き、日々手向けの線香をあげている話も聞く。
やはり適当な距離を置いた付き合い方が良いのだろう。

家の嫁さんは事の他溺愛している。犬も我々との態度と違うから驚きである。
吉井町から貰って来た時に、自分の使っているバスタオルに包んで来たから親と思っているのかもしれない。
抱かれても平気だし、なすがままになっているが、我々が抱こうとすれば暴れて始末が悪い。
時々仕置きをするから、警戒しているのか。

何れにしても地球上の命である事には変わりがない。
お互い、労り合い生きて行きたいものである。






2011年11月27日日曜日

管見、現代落語論

立川談志師が先ごろ亡くなられた。
享年75歳であるから、ぱそ爺と同年代である。
友人知人の訃報が聞かれる年ごろとなった。
しかしこれだけは年功序列通りには行かないから、同年齢であろうが、若かろうが、どうにも致し方なの無い天の配剤であるのが人生の妙である。

今回なぜ落語について蘊蓄を語ろうとしているのか、蘊蓄と言うほどの物ではないが、たまたま立川談志師の「五人まわし」という廓噺を聞いたからである。
この人の経歴、評価はあらゆる方面で語られているので、敢えて触れない。
しかし、同じ話を林家正蔵師の「五人まわし」と比較した場合、何か違和感が残った。

ぱそ爺は、お笑いが好きで、取り分け落語のカセットテープ、CDを100枚近く持っている。
寝ながら聞くと、いつしか寝入る事が出来る。
しかし研究をするために聞くとか、落語家の批評をするため、とかの類ではない。
しかし、同じ噺を聞くと違いが分かるというか、この表現方法は考え過ぎでは、と感じたのが今回のテーマである。
この噺の粗筋は、江戸時代の遊郭吉原の中クラスの女郎屋に喜瀬川というあばずれ女郎が居て、そこに通って来た男5人が手玉に取られると言うものである。
要は、一人ひとり部屋に通されているが、お目当ての喜瀬川はさる田舎のお大尽の所に入り浸って、他の男はほったらしにしたままである。
その男たちと、女郎屋の番頭のやり取りが中心になっているのだが、林家正蔵師の男たちの表現や人間性を、怒ったっり、虚勢を張ったり、諦めたりと、5人5様の語り口で表すのだが、特に、江戸っ子の気性を巧みに出していた。

しかし、立川談志師の江戸っ子は、ただ早口に捲くし立て、聞いていて理解しずらく、単なる早口言葉としか言いようのないものであった。
女郎に振られた若者が、腹いせと照れ隠しで番頭に当たり散らすのだが、単に聞いて居る者が理解できない早口で延々と捲くし立てるのを、江戸っ子と表現したとすれば勘違いも甚だしい。
こうした古典落語を、立川談志師が言う所の現代的な解釈に基づいて噺を組み立てているとすれば間違いである。

昭和の若手3名人として、古今亭志ん朝師、三遊亭円楽師、立川談志師が挙げられており、その中でも、立川談志師は博識と毒舌を売りに、これまでの古典落語に彼特有の解釈で焼き直し、高座に掛けて来た。
人はそれを、昭和の名人と評するのだが、YuoTubeなどでも聞く事が出来、客席とのやり取り、現代批評などは歯に衣着せない語りで受けているのは、他の落語家の真似の出来ない所である。

しかし、それは一時の仇花の様なもので、落語の真髄を貫くものではないと、ぱそ爺は思うのだが如何であろうか。
寝ながら聞くのには、荒唐無稽な噺を飄々と語るものが良い。
兎角名人とか、天才と言われる落語家の噺は疲れる。
寝っ転がったり、居眠りしながらでも聞けるのが、本当の落語の様な気がする。
「わたくしは、春風亭柳昇と申しまして、大きな事を言うようですが、今や春風亭柳昇と言えば、我が国では…(沈黙)、わたし一人でございます…」の決まり文句を言ってから始める落語は、何度聞いても聞き飽きないのは何故だろうか。