2011年11月27日日曜日

管見、現代落語論

立川談志師が先ごろ亡くなられた。
享年75歳であるから、ぱそ爺と同年代である。
友人知人の訃報が聞かれる年ごろとなった。
しかしこれだけは年功序列通りには行かないから、同年齢であろうが、若かろうが、どうにも致し方なの無い天の配剤であるのが人生の妙である。

今回なぜ落語について蘊蓄を語ろうとしているのか、蘊蓄と言うほどの物ではないが、たまたま立川談志師の「五人まわし」という廓噺を聞いたからである。
この人の経歴、評価はあらゆる方面で語られているので、敢えて触れない。
しかし、同じ話を林家正蔵師の「五人まわし」と比較した場合、何か違和感が残った。

ぱそ爺は、お笑いが好きで、取り分け落語のカセットテープ、CDを100枚近く持っている。
寝ながら聞くと、いつしか寝入る事が出来る。
しかし研究をするために聞くとか、落語家の批評をするため、とかの類ではない。
しかし、同じ噺を聞くと違いが分かるというか、この表現方法は考え過ぎでは、と感じたのが今回のテーマである。
この噺の粗筋は、江戸時代の遊郭吉原の中クラスの女郎屋に喜瀬川というあばずれ女郎が居て、そこに通って来た男5人が手玉に取られると言うものである。
要は、一人ひとり部屋に通されているが、お目当ての喜瀬川はさる田舎のお大尽の所に入り浸って、他の男はほったらしにしたままである。
その男たちと、女郎屋の番頭のやり取りが中心になっているのだが、林家正蔵師の男たちの表現や人間性を、怒ったっり、虚勢を張ったり、諦めたりと、5人5様の語り口で表すのだが、特に、江戸っ子の気性を巧みに出していた。

しかし、立川談志師の江戸っ子は、ただ早口に捲くし立て、聞いていて理解しずらく、単なる早口言葉としか言いようのないものであった。
女郎に振られた若者が、腹いせと照れ隠しで番頭に当たり散らすのだが、単に聞いて居る者が理解できない早口で延々と捲くし立てるのを、江戸っ子と表現したとすれば勘違いも甚だしい。
こうした古典落語を、立川談志師が言う所の現代的な解釈に基づいて噺を組み立てているとすれば間違いである。

昭和の若手3名人として、古今亭志ん朝師、三遊亭円楽師、立川談志師が挙げられており、その中でも、立川談志師は博識と毒舌を売りに、これまでの古典落語に彼特有の解釈で焼き直し、高座に掛けて来た。
人はそれを、昭和の名人と評するのだが、YuoTubeなどでも聞く事が出来、客席とのやり取り、現代批評などは歯に衣着せない語りで受けているのは、他の落語家の真似の出来ない所である。

しかし、それは一時の仇花の様なもので、落語の真髄を貫くものではないと、ぱそ爺は思うのだが如何であろうか。
寝ながら聞くのには、荒唐無稽な噺を飄々と語るものが良い。
兎角名人とか、天才と言われる落語家の噺は疲れる。
寝っ転がったり、居眠りしながらでも聞けるのが、本当の落語の様な気がする。
「わたくしは、春風亭柳昇と申しまして、大きな事を言うようですが、今や春風亭柳昇と言えば、我が国では…(沈黙)、わたし一人でございます…」の決まり文句を言ってから始める落語は、何度聞いても聞き飽きないのは何故だろうか。


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