2010年11月24日水曜日

楽しいクラブの忘年会

パソコンクラブWPCの忘年会が11月22日、倉渕温泉長寿の湯で行われることになり、午前9時40分、マイクロバスに乗せられて出発した。
天候は生憎雨模様で、途中から本降りになってしまった。
17人を乗せたバスの中は、子供の遠足雰囲気でワイワイ、げらげらと、外降る雨など気にしている人は皆無で有る。
倉渕温泉は榛名山の真西方向で、合併で高崎市になっているが山深い場所にある。
若い頃、ゴルフに来た事の有るロイヤルオークとか、KGカントリーの看板が懐かしい。
途中、小栗上野介の足跡を展示してある東善寺に立ち寄る。
幕末の英傑として、最近、脚光が当てられて来た人である。
瓦解して行く徳川幕府の中に於いて主戦論者として知られているが、むしろ時代の先駆者として日本の将来を見据えていた人らしい。
浅学にして多くは知らないが、何時の時代にも先読みが出来る人が存在するが、世に受け入れられずに非業の生涯を送る事になる。
それにしても驚く事は、上野介の奥さんが身重にも拘らず数人のお伴と逃避行する行程で有る。
権田村から新潟へ出て、そこから会津若松まで逃げて行く道中は想像を絶するものがある。

東善寺から約20分位の所に長寿の湯がある。
平日の午後12時にも拘わらずお客の車の多い事、2,30台は駐車している。
中広間に通されて型どおりのセレモニーで宴会が始まる。
飲むほどに、酔いが回る程に話題に出るのは来年の身の振り方である。
このクラブは今年で6年目になり、来年はMネットのサポート対象外となる。
折角6年も机を並べて来た皆さんは、別れ難く、不思議な縁となっている。
いろいろ話が出てきたが、結局のところ自主運営をする事に落ち付いた。
会長を中心に、手慣れた2,3人がサポートをして行く事になったが、目的を明確にして運営する事が大事であるし、自主運営するクラブで有れば、Mネットとしても必要に応じて手をお貸し出来るのではと、約束せざるを得ない状況となった。
酒が入るとすぐ気が大きくなって、出来もしない事を言うとお叱りを受けるかもしれないが、現に、アテネットもその様な支援をしているから、同じようにしてやらなければと、思う次第です。
楽しい倉渕温泉での忘年会も終焉となり、再び雨の中を一路伊勢崎を目指して帰路に付いた。

2010年11月20日土曜日

再び森田修氏の県議会議員選挙について

群馬県議会議員選挙に出馬表明した森田修氏について再度述べる。
既に本人の立候補の意思は固く、近隣周辺の友人知人縁故を伝に戸別訪問を開始した。
この戦術は2回目の衆議員選を落選した時以後、次を目指した行動として選挙区を隈なく訪問して以来のものである。
約2年間、二人三脚での戸別訪問をしたのである。
東は桐生市、笠懸町、藪塚町、東村、西は玉村町、北は赤堀町、南は境町、勿論地元伊勢崎市内の一軒一軒を回り、顔を合わせ苦情を聞きながら照る日曇る日、春夏秋冬を通した行脚をしたのである。
修行僧の難行にも似た行動であった。
しかし、いざ二年後の選挙となると孤立無援の上、無所属ゆえの悲しさで、政見放送は出来ず、ポスターも全ての掲示版まで手が回らず、立会演説会場の借用に各市町村の文化会館へ出向く道すがら貼って行く有様であった。


今回の群馬県議会議員選挙に立候補するに当たり、並々ならない決意の基に決定したものであり、再び戸別訪問行脚戦術で臨んだものと言えよう。
選挙は後援会組織を立ち上げ、有力者の指揮の元に選挙活動を展開して行くのが常道である。
しかしながら最近の選挙事情は、必ずしもその筋書き通りには行かない様な気がする。
無関心、無党派層と言うか、地縁に捉われない縁故無視の選挙人が増加して来たような感じがする。
波長が合えば投票したり、人目を引く斬新な選挙活動をした人を支持したり、旧態依然とした選挙活動では当選が危なくなって来ている。
つい最近までは、あの人は何票持っているとか、一声掛けると一定の票は集められるとか言われていた顔役がいたが、今の時代でそんな人は稀有である。
高齢で居なくなると同時に、地域住民も地主対小作、有力者対被支配者の力関係から解放されたのである。
新選挙人種も権利意識が芽生え、家長であった親や祖父の言う事など聞かなくなっている。
サークルが一緒であるとか、PTA活動をしていたとか、ボランティアで顔見知りとかの投票行動の他に、宗教活動も無視できない。
借家人の流入も地域の連帯感を薄れさせる要因となっている。
今日の選挙は、ムードで投票する、顔が良いから1票入れるとした傾向も強いと見るが、如何であろうか。


そうした観点から群馬県議会議員選挙立候補予定者森田修氏を見た場合、ややオーソドックスな感の有る戸別訪問では有るが、直近の落選を売りに同情を集めるかもしれない。
更に、孤軍奮闘、あそこまでやるのかと言う共感が期待できる。


T氏は労組頼み。K氏は時流に乗る似非党員、T氏に至ってはマンネリの最たる現職である。
新たに出るH氏は親の七光りと財力に物を言わせる選挙を展開するであろうし、H氏は地元地域を頼みとする選挙戦になるのか、Y氏は市政批判をして来るものと思われ、I氏は地元を当てにしない宗教団体の組織票頼みと言われている。
こうした人たちに割って入る隙間候補としての森田修氏は、どのような流れを作るか、同情票プラス三郷、、赤堀地区の人達に何を訴えるか、何が政治に掛けているかを見い出してアピールして行くか。
先ず、現状での県議不在地区解消を訴え、南部中心の開発を北部に振り向けさせる地域間格差是正を唱えて行くべきではないだろうか。


そして後援会は、形に捉われずに「森田修を県議会に送ろう会」として編制替えして、一人が10人を紹介して行くネズミ算連鎖勧誘作戦を展開すれば良いのではないだろうか。
10が100になり、100が1000、1000が10000と連鎖の輪を広げて行くしかないのではなかろうか。
当然何処かで切れたり、重複する事は有るかもしれないが、当面先日の集会に集まった100人が基礎数になって、活動開始したらどうだろう。

2010年11月6日土曜日

生タコ始末記

行きつけの魚屋で、「丸政」と言うのがある。
街中の商店街が寂れて行く中で、この魚屋は大層な繁盛である。
最も周辺にスーパーは無いし、競争相手が無いのが強みである。
パソ爺の所から車で15分位掛かるから、郊外店の「マッセイ」の方が近くて安い。
しかし鮮度や、目の前で切り身を作ってくれる点が魅力で馴染みにしている。

パソ爺は酒の肴では、生タコの刺身が好物である。
しかし、なかなか売っていないし、居酒屋で注文しても無いのが普通である。
時たま宴会などで出される事があるが、あのグニャグニャした食感は何とも言えない。
久しくお目に掛かって居ないので「丸政」の主人に聞いた所、時々市場には出るが買う人が居ないので仕入れないとの事。
そこで頼んで置いから半月も経った頃、入荷したとの電話で出掛けるが、渡された品物を見てびっくり。
こっちは刺身状に切り分けられて、今夜にでも一杯やりながら食べられると思い描いて居たから尚更である。
足の付け根が5・6センチ程、長さが3・40センチ位は有る現物がパックに入っているのだ。

切って無いの?と聞くと、簡単だよ、自分でやれるから練習だと思ってやってみたら、と宣う(この「のたまう」はIMEの言語では出ない。)ではないか。
ははん、わかったぞ!。切るのは面倒だし、切り賃を入れると値段が高くなり、要らないと言われたら売れ損なうと思ったか?。
結局1500円払い、其の侭持ち帰って来た。
それを見た妻の第一声、アタシャ気味悪くてそんなもの切れないからね、と来た。
じゃーどうすんだい。このまま茹でダコにするのなら態々粋がって生タコなど買う事も無いのに、という言葉を腹に収め、インターネットが有るじゃないかと起動して検索をする。

Googleは頼りになる。
「レシピー 生タコ」と検索キーを入れると有るは有るは、世の中暇な人間が生タコの蘊蓄をこれ見よがしに投稿している。
その中から分かり易く、懇切丁寧な説明サイトを印刷して生体解剖に入る。

何時間前に獲れたかは知らないが、生きているのだ。
頭が無いのに足は動いている。
水でよく洗い、塩を入れ滑りを落とすために足先から元までゴシゴシ、クニャクニャと揉み洗い。
大きな吸盤の中は、砂があると困るので殊更よく洗う。こうして15分。

皮を剥かなければならない。
出刃庖丁で根元から刃先を入れ、縦に真っ直ぐに入れるがなかなか思う様な訳には行かない。
悪戦苦闘、ようやく身と皮の切り離しに成功する。
皮は蛸飯にしたら、と脇で見ている妻は簡単に言う。

そこで再びGoogleさんのお世話になる。
これも出る出る、ああでもない、こうでもないと投稿されている。
簡単なサイトを印刷。
皮は、切り刻んで硼酸と番茶で5分位煮て灰汁だしをする。
後は炊き込み飯の作り方と同じである。

翌朝の仕込みをして、さて本体である。
白身になって俎板に横たわる生タコ。
本来ならこれをスライスに下ろし、わさび醤油で一杯という段取りで始めたのだが、時間も経っているためか、草臥れて食う気が失せてしまった。
冷凍して、明日しゃぶしゃぶでもするか、と提案すると、そうね、生で食べるのは気持ちが悪いからね、と決まり、ラップして冷蔵庫の中へ。
こうして生タコ解体は大山鳴動して終結。
インターネットまで使い、この数時間のてんやわんやは何んだったのだ。

夕食は、煮込みうどんで終り。

2010年11月2日火曜日

不屈の男 森田 修さん

森田さんと言っても知っている人は少ない。
近所に住む今年60歳になる政治家志望の薬局経営の薬剤師で有る。
千葉大学の薬学部を卒業したが、政治への思いが募り政治学科も卒業した変わり種である。

昔々と言っても16年前ぐらい、薬局経営の傍ら学習塾を開いていたが、或る日或る時、市議会議員選挙に突然立候補して当選してしまった。
後援会も作らず、地元の有力者の手も借りず、人柄の良さで集まって来たボランティアの手作り選挙であった。
当時地元には2期目の現職が立候補していたが、構わずの立候補で二人とも当選したから良かったものの、現職が落選したら怨念選挙になる処であった。
それから2年も経たずに、衆議院議員選挙に出馬してしまった。

それからがこの人の苦難が始まったと言っても過言ではない。
この選挙で落選し、その後2度挑戦をして跳ね付けられてしまった。
この間、結婚をして夫婦二人三脚で政治活動をしていたが、自民党の壁は厚く如何ともし難い結果であった。

暫くは隠忍自重していたが、政治への志止み難く、再び市議会議員選挙に立候補し当選。
この時は任期一杯、議会活動を全うした。
福祉や通学路の問題に積極的に取り組み、且つ福祉活動の実践者としても活動して来た。

2期目の選挙は危ないと言われるが、そのジンクス通りこの春の選挙は落選してしまった。
油断していた訳では無いのだが、1期目の活動が自信となって選挙運動が緩慢になってしまった。
前回の選挙に有った緊迫感が無く、高齢化した後援会の動きも鈍く、地元から対立候補が出ていたが楽勝ムードが漂っている状態であった。
自分のした事が、めぐりめぐって2期目の選挙で仕返しされた様な戦いになった。

投票行動は、立候補者が挨拶に来たか来なかったかで左右されるものである。
例え隣近所でも、知人友人でもそうである。
2千枚の選挙葉書を出すより、1千人との握手で有るらしい。
候補者に親近感を持って貰う事が大事で、高邁なスローガンや選挙カーからの連呼だけでは投票して呉れない事を分からせてくれた。
更に、身内に敵を作ってはならない。
敵となった者は、傍に居ただけに色いろな事を知って居ると思われるから、有る事無い事が全てが真実として受け止められてしまう怖さがある。

この森田さんが、落選の傷癒えぬと言うのに再び不死鳥のように行動を開始したのである。
来年4月に改選される県議会議員選挙に出馬する事を表明したのである。
2勝4敗の選挙結果もなんのその、混戦模様の選挙に割って入る事になった。
形勢は断然不利にも関わらずにである。
これを七転び八起きの「不屈の男」と称すべきか、はたまた向う見ずの「政治バカ」と言うべか、言う言葉を知らない。

しかし、常に男は挑戦する志を失ってはいけないと思う。
「水滴石を穿つ」の例えが有るように、精神一到何事か成ざらんの精神こそ日本人が、現代人が忘れてしまったものかもしれない。