2010年12月28日火曜日

最後の忠臣蔵考

12月は何故か一行も書けなかった。
年賀状を投函して気が安らいだら、書く気が出て来た。
これまで、Mネットの人達からの年賀状には出さないでいたが、それでは余りに失礼と思い今年は書く事にしたら、今日まで延び延びとなってしまった。
それが心の負担になって、ブログに向かわない原因とは気の小さな男よと、思われそうだ。

さて本日は、件名の映画を観た感想を述べたい。
この映画は、池宮彰一郎さんの「47人目の浪士」の収められた一編である。
初稿は、平成5年5月から週刊新潮に連載されたものである。
翌年、先程の単行本となり、「仕舞始」、「飛蛾の火」、「命なりけり」、「最後の忠臣蔵」と共に発行されたものである。
パソ爺は購入していたが忘れていた。
映画の題名を見て何処かで見た様な、本を買った様な気がして探したらありました。
埃塗れになって、すっかり忘れていたのだ。

読み返してから映画を見に行く事にして、最初からゆっくりと紐解き読み始めたらこの作者の漢字の使い方が独特である。
仕方なく電子辞書を傍らに置き、読み始める事2日間。
先ず、タイトルから分からない。「仕舞始」仕舞い始めと読むのだが意味が分からない。
広辞苑を引くが出てこない。
おそらく討ち入りが終わり引き揚げる途中、休憩した旧藩の上屋敷で大石内蔵助に言い含められて逃亡するが、それが苦難の始まりを意味するものと理解して進む。

小説は、全篇を通して寺坂吉右衛門を中心とした筋立てとして進むので、最後の忠臣蔵とは彼を指すものと思っていたがそうではなかった。
討ち入り当夜に脱盟し、大石の愛人「可留」とその娘を匿い養う事になる役所広司扮する瀬尾孫左衛門では無いかと気付いた。
脚本も瀬尾孫左衛門と、大石内蔵助と可留の娘「可音」を中心にしたものであった。
この可音が可憐な雰囲気を持つ女優である。桜庭ななみと言う鹿児島県出身で、ほぼ新人であるが、兎に角見ているだけで孫左衛門とのやり取りが切なく感じさせる不思議な女優である。

さて、徳川時代に御家取り潰しになった大名家は百近くなるそうだが、討ち入りに参加した縁者は勿論、禄を離れた家士達の行く末まで面倒を見たのは赤穂浅野藩だけとの事である。
それも殿様が偉いのではなく、大石の蓄財、現代的には財テク資金のよるものである。
塩田開発に力を発揮した大石は、大阪の豪商天川屋と結託して藩に入れる金銭の一部を簿外金として蓄財して運用し、将来の藩存亡に関わる事態に備えていたとの事である。
まるで殿様の刃傷沙汰を予想して居たかのような用意周到さで、討ち入りに成功したのである。
又は、浅野内匠頭が殿様としての資質に欠ける所を、見越していたのであろうか。

話を映画に戻します。
先程も述べたように、小説と映画は視点が違って描かれて居ます。
映画は、孫左衛門と可音が中心で、幕府の詮議から逃れ山里に隠れ住み、夕様と言うやはり隠棲している女性の庇護の元に育ってゆく過程と、可音が京の豪商茶屋四郎次郎の倅に見染められて嫁して行くまでを描いている。

しかし、小説では吉右衛門が東奔西走して元浅野家の家臣を訪ね、生活相談をしながら全国を歩き回って居た時に、京都の茶店でかっての盟友を見かける事が発端となっている。
探し訊ねて見たものは、孫左衛門と可音の隠棲する姿であるが、全てを悟った吉右衛門が嫁入りの手助けをして行く事になっている。
又、可音を養育し躾をしたのは其処に住んでいた尼主であり、映画のような生臭いものではない。

映画が生臭いというのは、可音を養育し躾をした夕様の前身が島原の遊女で、夕霧太夫と言う女性で茶屋四郎次郎に身請けされて匿われていたが、今は一人住まいをしており可音を嫁がせた後に孫左衛門と一緒になることを夢見ていたのである。この役は朝の連続ドラマに出ている安田成美が演じているが、艶めかしさを滲ませる役となっている。

最後は、小説、映画共孫左衛門が役目を終えたとして大石の後を追うのであるが、そこで吉右衛門が瀕死の孫左衛門に呼び掛ける言葉が「孫左、これが赤穂侍か」。
16年の歳月を耐え忍び、役目一筋に尽くし果して後、46人の後追い切腹をする忠義心を最後の忠臣蔵として、47人目の浪士になったとの印象付けであった。

ただ人形浄瑠璃が全編に流されていたが、それも「曽根崎心中」で「おはつ徳平衛」の道行から心中するまでを延々と流す意味が最後まで分からなかった。
何方か映画を見て、絵解きしてください。

2010年11月24日水曜日

楽しいクラブの忘年会

パソコンクラブWPCの忘年会が11月22日、倉渕温泉長寿の湯で行われることになり、午前9時40分、マイクロバスに乗せられて出発した。
天候は生憎雨模様で、途中から本降りになってしまった。
17人を乗せたバスの中は、子供の遠足雰囲気でワイワイ、げらげらと、外降る雨など気にしている人は皆無で有る。
倉渕温泉は榛名山の真西方向で、合併で高崎市になっているが山深い場所にある。
若い頃、ゴルフに来た事の有るロイヤルオークとか、KGカントリーの看板が懐かしい。
途中、小栗上野介の足跡を展示してある東善寺に立ち寄る。
幕末の英傑として、最近、脚光が当てられて来た人である。
瓦解して行く徳川幕府の中に於いて主戦論者として知られているが、むしろ時代の先駆者として日本の将来を見据えていた人らしい。
浅学にして多くは知らないが、何時の時代にも先読みが出来る人が存在するが、世に受け入れられずに非業の生涯を送る事になる。
それにしても驚く事は、上野介の奥さんが身重にも拘らず数人のお伴と逃避行する行程で有る。
権田村から新潟へ出て、そこから会津若松まで逃げて行く道中は想像を絶するものがある。

東善寺から約20分位の所に長寿の湯がある。
平日の午後12時にも拘わらずお客の車の多い事、2,30台は駐車している。
中広間に通されて型どおりのセレモニーで宴会が始まる。
飲むほどに、酔いが回る程に話題に出るのは来年の身の振り方である。
このクラブは今年で6年目になり、来年はMネットのサポート対象外となる。
折角6年も机を並べて来た皆さんは、別れ難く、不思議な縁となっている。
いろいろ話が出てきたが、結局のところ自主運営をする事に落ち付いた。
会長を中心に、手慣れた2,3人がサポートをして行く事になったが、目的を明確にして運営する事が大事であるし、自主運営するクラブで有れば、Mネットとしても必要に応じて手をお貸し出来るのではと、約束せざるを得ない状況となった。
酒が入るとすぐ気が大きくなって、出来もしない事を言うとお叱りを受けるかもしれないが、現に、アテネットもその様な支援をしているから、同じようにしてやらなければと、思う次第です。
楽しい倉渕温泉での忘年会も終焉となり、再び雨の中を一路伊勢崎を目指して帰路に付いた。

2010年11月20日土曜日

再び森田修氏の県議会議員選挙について

群馬県議会議員選挙に出馬表明した森田修氏について再度述べる。
既に本人の立候補の意思は固く、近隣周辺の友人知人縁故を伝に戸別訪問を開始した。
この戦術は2回目の衆議員選を落選した時以後、次を目指した行動として選挙区を隈なく訪問して以来のものである。
約2年間、二人三脚での戸別訪問をしたのである。
東は桐生市、笠懸町、藪塚町、東村、西は玉村町、北は赤堀町、南は境町、勿論地元伊勢崎市内の一軒一軒を回り、顔を合わせ苦情を聞きながら照る日曇る日、春夏秋冬を通した行脚をしたのである。
修行僧の難行にも似た行動であった。
しかし、いざ二年後の選挙となると孤立無援の上、無所属ゆえの悲しさで、政見放送は出来ず、ポスターも全ての掲示版まで手が回らず、立会演説会場の借用に各市町村の文化会館へ出向く道すがら貼って行く有様であった。


今回の群馬県議会議員選挙に立候補するに当たり、並々ならない決意の基に決定したものであり、再び戸別訪問行脚戦術で臨んだものと言えよう。
選挙は後援会組織を立ち上げ、有力者の指揮の元に選挙活動を展開して行くのが常道である。
しかしながら最近の選挙事情は、必ずしもその筋書き通りには行かない様な気がする。
無関心、無党派層と言うか、地縁に捉われない縁故無視の選挙人が増加して来たような感じがする。
波長が合えば投票したり、人目を引く斬新な選挙活動をした人を支持したり、旧態依然とした選挙活動では当選が危なくなって来ている。
つい最近までは、あの人は何票持っているとか、一声掛けると一定の票は集められるとか言われていた顔役がいたが、今の時代でそんな人は稀有である。
高齢で居なくなると同時に、地域住民も地主対小作、有力者対被支配者の力関係から解放されたのである。
新選挙人種も権利意識が芽生え、家長であった親や祖父の言う事など聞かなくなっている。
サークルが一緒であるとか、PTA活動をしていたとか、ボランティアで顔見知りとかの投票行動の他に、宗教活動も無視できない。
借家人の流入も地域の連帯感を薄れさせる要因となっている。
今日の選挙は、ムードで投票する、顔が良いから1票入れるとした傾向も強いと見るが、如何であろうか。


そうした観点から群馬県議会議員選挙立候補予定者森田修氏を見た場合、ややオーソドックスな感の有る戸別訪問では有るが、直近の落選を売りに同情を集めるかもしれない。
更に、孤軍奮闘、あそこまでやるのかと言う共感が期待できる。


T氏は労組頼み。K氏は時流に乗る似非党員、T氏に至ってはマンネリの最たる現職である。
新たに出るH氏は親の七光りと財力に物を言わせる選挙を展開するであろうし、H氏は地元地域を頼みとする選挙戦になるのか、Y氏は市政批判をして来るものと思われ、I氏は地元を当てにしない宗教団体の組織票頼みと言われている。
こうした人たちに割って入る隙間候補としての森田修氏は、どのような流れを作るか、同情票プラス三郷、、赤堀地区の人達に何を訴えるか、何が政治に掛けているかを見い出してアピールして行くか。
先ず、現状での県議不在地区解消を訴え、南部中心の開発を北部に振り向けさせる地域間格差是正を唱えて行くべきではないだろうか。


そして後援会は、形に捉われずに「森田修を県議会に送ろう会」として編制替えして、一人が10人を紹介して行くネズミ算連鎖勧誘作戦を展開すれば良いのではないだろうか。
10が100になり、100が1000、1000が10000と連鎖の輪を広げて行くしかないのではなかろうか。
当然何処かで切れたり、重複する事は有るかもしれないが、当面先日の集会に集まった100人が基礎数になって、活動開始したらどうだろう。

2010年11月6日土曜日

生タコ始末記

行きつけの魚屋で、「丸政」と言うのがある。
街中の商店街が寂れて行く中で、この魚屋は大層な繁盛である。
最も周辺にスーパーは無いし、競争相手が無いのが強みである。
パソ爺の所から車で15分位掛かるから、郊外店の「マッセイ」の方が近くて安い。
しかし鮮度や、目の前で切り身を作ってくれる点が魅力で馴染みにしている。

パソ爺は酒の肴では、生タコの刺身が好物である。
しかし、なかなか売っていないし、居酒屋で注文しても無いのが普通である。
時たま宴会などで出される事があるが、あのグニャグニャした食感は何とも言えない。
久しくお目に掛かって居ないので「丸政」の主人に聞いた所、時々市場には出るが買う人が居ないので仕入れないとの事。
そこで頼んで置いから半月も経った頃、入荷したとの電話で出掛けるが、渡された品物を見てびっくり。
こっちは刺身状に切り分けられて、今夜にでも一杯やりながら食べられると思い描いて居たから尚更である。
足の付け根が5・6センチ程、長さが3・40センチ位は有る現物がパックに入っているのだ。

切って無いの?と聞くと、簡単だよ、自分でやれるから練習だと思ってやってみたら、と宣う(この「のたまう」はIMEの言語では出ない。)ではないか。
ははん、わかったぞ!。切るのは面倒だし、切り賃を入れると値段が高くなり、要らないと言われたら売れ損なうと思ったか?。
結局1500円払い、其の侭持ち帰って来た。
それを見た妻の第一声、アタシャ気味悪くてそんなもの切れないからね、と来た。
じゃーどうすんだい。このまま茹でダコにするのなら態々粋がって生タコなど買う事も無いのに、という言葉を腹に収め、インターネットが有るじゃないかと起動して検索をする。

Googleは頼りになる。
「レシピー 生タコ」と検索キーを入れると有るは有るは、世の中暇な人間が生タコの蘊蓄をこれ見よがしに投稿している。
その中から分かり易く、懇切丁寧な説明サイトを印刷して生体解剖に入る。

何時間前に獲れたかは知らないが、生きているのだ。
頭が無いのに足は動いている。
水でよく洗い、塩を入れ滑りを落とすために足先から元までゴシゴシ、クニャクニャと揉み洗い。
大きな吸盤の中は、砂があると困るので殊更よく洗う。こうして15分。

皮を剥かなければならない。
出刃庖丁で根元から刃先を入れ、縦に真っ直ぐに入れるがなかなか思う様な訳には行かない。
悪戦苦闘、ようやく身と皮の切り離しに成功する。
皮は蛸飯にしたら、と脇で見ている妻は簡単に言う。

そこで再びGoogleさんのお世話になる。
これも出る出る、ああでもない、こうでもないと投稿されている。
簡単なサイトを印刷。
皮は、切り刻んで硼酸と番茶で5分位煮て灰汁だしをする。
後は炊き込み飯の作り方と同じである。

翌朝の仕込みをして、さて本体である。
白身になって俎板に横たわる生タコ。
本来ならこれをスライスに下ろし、わさび醤油で一杯という段取りで始めたのだが、時間も経っているためか、草臥れて食う気が失せてしまった。
冷凍して、明日しゃぶしゃぶでもするか、と提案すると、そうね、生で食べるのは気持ちが悪いからね、と決まり、ラップして冷蔵庫の中へ。
こうして生タコ解体は大山鳴動して終結。
インターネットまで使い、この数時間のてんやわんやは何んだったのだ。

夕食は、煮込みうどんで終り。

2010年11月2日火曜日

不屈の男 森田 修さん

森田さんと言っても知っている人は少ない。
近所に住む今年60歳になる政治家志望の薬局経営の薬剤師で有る。
千葉大学の薬学部を卒業したが、政治への思いが募り政治学科も卒業した変わり種である。

昔々と言っても16年前ぐらい、薬局経営の傍ら学習塾を開いていたが、或る日或る時、市議会議員選挙に突然立候補して当選してしまった。
後援会も作らず、地元の有力者の手も借りず、人柄の良さで集まって来たボランティアの手作り選挙であった。
当時地元には2期目の現職が立候補していたが、構わずの立候補で二人とも当選したから良かったものの、現職が落選したら怨念選挙になる処であった。
それから2年も経たずに、衆議院議員選挙に出馬してしまった。

それからがこの人の苦難が始まったと言っても過言ではない。
この選挙で落選し、その後2度挑戦をして跳ね付けられてしまった。
この間、結婚をして夫婦二人三脚で政治活動をしていたが、自民党の壁は厚く如何ともし難い結果であった。

暫くは隠忍自重していたが、政治への志止み難く、再び市議会議員選挙に立候補し当選。
この時は任期一杯、議会活動を全うした。
福祉や通学路の問題に積極的に取り組み、且つ福祉活動の実践者としても活動して来た。

2期目の選挙は危ないと言われるが、そのジンクス通りこの春の選挙は落選してしまった。
油断していた訳では無いのだが、1期目の活動が自信となって選挙運動が緩慢になってしまった。
前回の選挙に有った緊迫感が無く、高齢化した後援会の動きも鈍く、地元から対立候補が出ていたが楽勝ムードが漂っている状態であった。
自分のした事が、めぐりめぐって2期目の選挙で仕返しされた様な戦いになった。

投票行動は、立候補者が挨拶に来たか来なかったかで左右されるものである。
例え隣近所でも、知人友人でもそうである。
2千枚の選挙葉書を出すより、1千人との握手で有るらしい。
候補者に親近感を持って貰う事が大事で、高邁なスローガンや選挙カーからの連呼だけでは投票して呉れない事を分からせてくれた。
更に、身内に敵を作ってはならない。
敵となった者は、傍に居ただけに色いろな事を知って居ると思われるから、有る事無い事が全てが真実として受け止められてしまう怖さがある。

この森田さんが、落選の傷癒えぬと言うのに再び不死鳥のように行動を開始したのである。
来年4月に改選される県議会議員選挙に出馬する事を表明したのである。
2勝4敗の選挙結果もなんのその、混戦模様の選挙に割って入る事になった。
形勢は断然不利にも関わらずにである。
これを七転び八起きの「不屈の男」と称すべきか、はたまた向う見ずの「政治バカ」と言うべか、言う言葉を知らない。

しかし、常に男は挑戦する志を失ってはいけないと思う。
「水滴石を穿つ」の例えが有るように、精神一到何事か成ざらんの精神こそ日本人が、現代人が忘れてしまったものかもしれない。

2010年10月30日土曜日

昭和歌謡音楽講座戦前編

地区公民館主催の昭和歌謡講座に応募した。
9月30日を初回に毎週木曜日午後1時半から3時半までの4回コースである。
最初の1回2回は昭和初期に活躍した作曲家服部良一の代表的な歌謡曲を聞き、その誕生秘話を聞く。

3回4回は古賀政男の曲40曲余りを聞き、世に出るまでの紆余曲折が紹介された。

当時の世相を反映した曲から、映画主題歌として流行したもの、曲が映画となったものなどいろいろな曲が流された。

講師は発売当時のSP盤を自前で蒐集した方で、6万5千枚13万曲を保有しているとの事。
その量にも驚くが、それ以上に当時の話題に精通して居る事に敬服した。
なんでも勤め先で服部良一と昵懇となり、この道に傾倒して現在に至っているらしい。

しかし、昭和10年頃に流行した曲をどうして懐かしく思い出されるのだろか。
生まれた当時に流れていた曲なのに。
歌を覚えるのは小学校に入学するか、していても2・3年生になっていなければ無理な話で、ラジオが中心で蓄音機など持ち合わせている家庭は近所には無かったような気がする。
親が歌っているのを聞いていたのであろうか。
それにしては歌手の名前や音声が、しっかり記憶のなかに入って居るから不思議である。
流石に歌詞はうろ覚えであるが。

淡谷のり子の「別れのブルース」や「雨のブルース」。
藤山一郎の「影を慕いて」や「酒は涙か溜息か」などなど。
李香蘭こと山口淑子、山田五十鈴、霧島昇、楠木繁夫などなど。
次から次へと流れる歌謡曲に2時間はあっという間に過ぎて行く。
あの頃の思い出が走馬灯のように流れて行く。
他人はこれを懐古趣味と言うのだろう。
過ぎ去った思い出に何の価値があると言うのか、と言われそうである。

しかしながら、今時の喧しく外人が歌うようなアクセントなどに比較して、当時の歌は心に染みいる何かがある。
歌に物語があり、情景を彷彿とさせる力がある。

そう思いながらICレコーダで録音したものを再生し、今日も眠りに付くパソ爺である。

2010年10月21日木曜日

振り込め詐欺対処フォーラム

振り込め詐欺が後を絶たない。
200万円振り込んでから気付いたとか、1000万円を5回に分けて振り込まされたなど、皮肉な言い方をすればこんなご時世に景気の良い話である。
被害者の立場に立てば何んと悔しい話ではあるが、同情が出来ないのは何故だろう。

行政は勿論、新聞・ラジオ・テレビなどで毎日の様に繰り返し被害に遭わないようにと、聞き飽きるほど呼び掛けて居るにも拘らず、倅だ、孫だと言われて易々と用立てている。
耄碌するような歳でも無い人までも、被害に遭うのは何故なのか。

真に迫って居たとか、考える暇がない様な話し方で有ったとか、冷静になれない状況を作られて右から左に現金を振り込むらしいが、中には手渡しで持って行かれる場合もあるとか。

信じる事は理屈ではなく、理性を超えた情そのものである。
特に、身内の事になれば後先を考えずに救助の手を差し伸べるのが、親であり、祖父母の心理である。

騙されて 泣く事も無し 秋の風

平成22年度の「シニアパソコンフォーラム」のテーマも、高齢者を対象にした悪徳詐欺商法から身を守る対処法を中心にその道に優れた講師の選定をする事にした。
パソコンのセキュリティ対策については、NHKのITホワイトボックスに出演された方と交渉中である。
悪徳詐欺商法から身を守る話については、落語風に聞かせて啓発活動をされている方に目星をつけて交渉ルートを模索している。
市の消費者生活センター窓口から行くべきか、インターネットで探すべきか検討中である。
開催時期は、例年3月中旬となっているので、第8回目の今回もその頃になると思われる。
詳細が決まれば、このブログでお知らせしたいと思います。

2010年10月19日火曜日

アナログ音源のデジタル化 その2

カセットテープなどのアナログ音源をデジタル化して、音楽CD作成に挑戦!!
準備用具
USBオーディオキャプチャー:ステレオミニプラグ3.5mmをカセットプレーヤーのイヤホーンジャック(1口)又はレコードプレイヤーの出力ジャック(赤と白ジャック)とUSBプラグをパソコン側のUSBジャックをつなぐケーブル(商品名:デジ造)
図左上パソコンUSBに接続してミュージックホルダーに音源を取り込み、編集し、音楽CDに書き込む。
図左下:携帯型カセットプレイヤー:イヤホーンジャックに接続してアナログ音源をパソコンに出力する。
1:WAVE化で録音
アナログ音源をデジタル化するにはいろんな方法がありますが、何れにしても最初はパソコンに取り込む必要があります。その取り込みは、ソフトによってはダイレクトに(mp3wmaなど)デジタル化が可能ですが、ここでは後々の便利さを考えて、一旦WAVE化する事にします。
【拡張子解説】
WAVEとは、Windowsで標準的に使われるサウンドデータのファイル形式で、汎用性がある。
mp3とは、音声を圧縮伸長する方式で最も普及している技術。CD100曲の録音が出来る。
wmaとは、Windows Media Audioの略で、マイクロソフトが開発した音声圧縮方式。
【取り込み前の確認事項】
   カセットプレイヤーでテープを再生して、録音するサイドの頭出しの位置確認や、再生音量の調整をして巻き戻して置きます。
   カセットプレイヤーがバッテリーの場合、電池切れを防ぐために新品に交換して置く。
   USBオーディオキャプチャの接続端子を、パソコン側とカセットプレイヤー側に接続します。
   省電力設定を「なし」にして置く。
2:取り込みソフトのインストールと録音
今回は、デジ造PCA-ACUI付属の取り込みソフト「5Star Audio Studio LE(カセットのアナログ音源をパソコンにWAVEファイルとして録音するソフト)をインストールします。解説書参照
「5Star Audio Studio LE」(以下、録音ソフトと表記。)はフリーソフトの為、【ディスクからの変換】、【音楽CDの作成】、【CDディスクのコピー機能】、【ディスクの消去機能】は付属していないので、パソコンに音楽を録音した後は【Windows Media Player】を使ってコピーCDの作成をします。

インストールが了すると上記のアイコンが表示されるので、ダブルクリックしてソフトを起動し、パソコンに初期画面(ディスクトップ)を表示させます。
試に、左側の「メイン」のメニュー表を順次クリックして見ましょう。
その中で、「現在のバージョン」の説明が表示される機能は操作が出来ないことを示しています。
録音は、「外部機器からの録音」をクリックします。以下次回

2010年10月6日水曜日

パソコンボランティアレベルアップ講習会

中高年者による中高年者のためのパソコンボランティア活動の事は既に紹介済みであるが、パソコンを取り巻く環境は日進月歩と言っても言い過ぎでなく、パソコン自体の機能の進化、それを動かす最新プログラムへの更新等々、毎年の様に次から次と発表されている。
新しいもの、機能の向上したものをと追い求めて行ったら際限が無く、年金者には不可能である。

そこでパソ爺の所属する団体では、年に1度最新技術の勉強会をプロの講師を招聘して実施している。
Vistaが発売されれば実地講習会を開催し、Office10が発表されればOffice7との違いを習う。
こうしてその時宜のトレンディなテーマを設定してレベルアップを図り、マンネリ化しない努力を続けている。

今回は、ハードを中心とした講習会を予定している。
Hp製のノートパソコンを分解して、各パーツを目で確認し、その機能と役割などを知ってもらい、具体的にはメモリーの増設とか、ハードディスクの交換、ハードディスクのデフラグやクリーンアップ、更には、リカバリーの方法等に付いて専門技術者から教授して貰う事にしている。

一口にパソコンボランティア活動と言っても、このような努力と日々の研鑽を疎かにしては、単に陳腐化した時代錯誤の知識を振り撒くものとなってしまう。

この他にも、250人の受講生を対象に年に一度の集合研修会を開催している。
一般参加者を合わせると400人近い人が市の文化会館小ホールを埋めてくれる。
2010年3月26日に第7回目の「シニアパソコンフォーラム」を開催した。
三遊亭圓丈師門下の三遊亭ぬう生様にご出演頂き、パソコンの話題を織り交ぜての落語と古典落語を1時間50分に亘り賑わしてくれた。

今回は、2011年3月中旬開催予定で準備を開始しているが、セキュリティ問題と悪徳詐欺商法防止対策をテーマにするべく講師の選定をしているが、悲しいかな、ボランティア団体は財政難のため薄謝程度しか準備できないのが弱みである。
過去には、世田谷のコンピュータおばあちゃん事、大川加代子様、つい最近ではNHKの中高年パソコン塾講師の佐々木博様にご出演して頂き好評を博しているが、遠い所お出で頂くのにボランティア謝金しかお支払い出来ず申し訳なく思っている。
また、このフォーラムの基本講演をして貰うのは根岸泰子様で、マイクロソフトのMOTの資格を持ち当団体の顧問をして頂いている。

このフォーラムが継続出来るのはこうした皆様のお陰と、群馬県長寿社会づくり財団及び伊勢崎市社会福祉協議会の支援に負うところが大きい。
そして何よりもこの活動が続けられているのは、伊勢崎市教育委員会が施設と設備を無料開放して呉れている事に他ならない。
全てに感謝感謝である。

2010年10月4日月曜日

Happy Birthday

2010.10.4は、パソ爺の74歳の誕生日に当たる。
午前中はパソボラでの講座をこなし、午後は木曜日の講座の仕込みをした。
取り立てて誕生祝いなどした事はないから、ふと思い出したまでであるが「ああ、74歳か」と、なんとなく思った。
しかし、妻の買い物に一つ注文をして置いた。
生タコの刺身である。
ボイルしたタコではなく、生たこをスライスしたのが好物なのだ。
それを肴に妻と二人で、又は一人で飲みたいと思ったので買い物の中に入れて置いた。
夕食時、孫が遊びに来たので、「今日は、おじいちゃんの誕生日。幾つになったと思う」と尋ねたところ、「73、74」と、順に答えて来た。
11歳の子供から見ると、やはり年寄りに見えるのだろうか。

「お爺ちゃんはね、孫とお酒を飲むのが夢だったんだよ。」
「まだ子供だもの、お酒飲めないよ。」
「だから、あと9年経てば20歳になり飲めるんだよ。」
「じゃー、今日は肩揉みをしてやるよ。」と言って、後ろに周り肩揉みを始めた。
自分が小さい時にこんな事をしたか忘れてしまったが、孫の肩揉みは柔らかく、そして精一杯の力を込めての肩揉みであった。
「孫の手に 焼酎甘く 74」

ささやかの誕生日である。
こんな人生でいいんだと思う。
名も無く、貧しく、安らかに、生きて行ける事が何よりと思う。

2010年10月1日金曜日

13人の刺客考

久しぶりに映画館に行って来た。 テレビで見る映画と違い、画面、音響の迫力は映画館に勝るものはない。
それに、暗くして見る雰囲気が堪らない。
なんか秘密めい部屋に置かれた気持ちになる。

さて、「13人の刺客」は前評判が高く、期待通りの出来栄えであった。
映画を見る事はあまりないので何をもって論評するか評価眼はないのだが、体にジンーと来るものがあったから良い映画であると思うだけである。

しかし、明治維新まで後33年の出来事との事であるから、如何にお家の大事とは言え当時の武士にあれまでの忠誠心と狂気の主人を存立しなければならない意義と、片や天下万民の為と言う大義で死ぬ事が出来る武士が居たのか疑問になる。

又、当時の宿場があんなみすぼらしく、掘立小屋風であったか。
当時の庶民生活のレベルが分からないから何とも言えないが、宿場の町並みが安っぽい気がした。

行列を遮断する4・5メートルもの高い柵が数か所有って行列を遮断するが、どのような仕掛けがされているのだろうか。
動かす原理が分からないもどかしさがある。
宿場の手前に架かる橋を爆破して、行列を分断させる方法が無いのも兵法として如何なものか。

さらに言えば、あれだけの爆発シーンが有るにしては、掘立小屋風の町に火災が発生しないのが不思議である。
むしろ大火災を発生させ、紅蓮の炎の中で全てを焼失して記録も何も残らないようにしてしえば実在の人物かとか、本当の出来事だったのかと、無用な穿鑿をしないで済む。
そして、それを見届けるのは山に逃げ込んだ宿場の名も無い人々だけであった・・・・・と、つまり武士社会の終焉を暗示するシーンとして終わらせてほしかった。

最後に、島田新左エ門さん他12人の皆さん、あんなに切りまくって手が疲れ無かったのだろうか。
本来なら刀身は折れ、血糊で刀の柄も握れなくなってしまうほどの人数を切りまくった訳ですから。
むしろ見終わったパソ爺が疲れてしまった。

2010年9月28日火曜日

一病息災か、加齢による複合病か

2ヶ月に一度、前橋日赤病院へ受診のため訪れている。
ここは、昨年6月に整形外科で頸椎の手術した処で、それ以来経過観察のため通院している。

入院中の出来事はいろいろあるが、医師、看護師の皆さんは、日本赤十字社の職員としての矜持をもって対応してくれた事が印象的であった。
とりわけ、パソ爺の入った病室は、ナースセンターに近いから要注意患者が収容されてくるらしい。
整形外科病棟は雑居病棟の様な所があり、救急入院患者や意味不明な入院患者が入って来る。
その都度、患者に対応する皆さんの真剣で、愛情的な処置に感心した。

パソ爺の右隣は、屋根から落ちた30代の職人風の男性で、部屋で一番若い。
連れ合いは、腕に入れ墨をした今時のギャル風である。

左隣にいた最初の男は、世の中を斜めに生きて来た様な老人で、看護師の言う事は聞かず挙句の果ては自分では何も出来ないから、糞尿の不始末から食事の介護まで世話を焼かせ、暴言を吐きながら威張っている。
退院の日取りが決まっていたらしく間もなく退院していったが、退院が不満で不貞腐れて居たものらしい。

暫く空きベッドになっていたが夜中に緊急入院があり、話の様子から80歳ぐらいの人で家の中で倒れたとの事。救急車で運ばれて来た。
当人は耳が遠く、看護師が名前の確認や、年齢などを聞いて意識レベルを調べるのだが、頓珍漢な受け答えのため看護師の問い掛ける声も次第に大きくなり、周りの病室に聞こえる程の音量になってくる。
患者の声も大きいからすれ違い漫才である。
そんな状況が2・3日続いたが、個室に移って行ったので又空きベットになり静かさが戻った。

再び夜、緊急入院があり肺に疾患がある様で、引っ切り無しに吸引をしていないと喉がごろごろして来る。
パソ爺の食事中もごろごろ、きゅうきゅうと音を立てている。
病気相身互いであるから苦情も言えない。
時には、ナースコールボタンが見つからず、隣にいるパソ爺が自分のボタンで連絡してやる事もあった。

右隣の職人が快方に向かったのか別室に移り、待っていたかのようにすぐふさがる。
今度も耳の遠い爺さんが入院してきた。
この爺さん、、左ベッドに居た爺さんと違い兎に角煩い。やかましい。
看護師を呼ぶにしても、来た看護師とやり取りする話声も、所構わず大声で話す。
独り言もでかい声で喋る。
受け答えも的外れで、家族の者は辺りを憚って小声で話すからなおである。
補聴器をつけさせようとするが、聞こえるからと言って言う事を聞かない。
夜もその調子であるから、病院側も見かねたのか夜9時過ぎになるとナースセンターの個室に隔離してくれた。
朝8時に戻ってくるのだが、なぜ自分だけが夜になるとベッドの移動があるのか疑問らしく、看護師に頻りに訊ねていたが、同室の者はお陰で安眠出来る様になった。

しかし、夜中に部屋の中をペタペタと歩き回る足音が聞こえてくる。
安眠すると言っても、熟睡する訳ではないから一寸した物音で目が覚めてしまう。
見ると、隣室の患者がトイレに起きて戻る部屋が分からなくなり、自分のベッドを探し回っていたのだ。
最初は看護師を呼んで連れ帰って貰ったが、たびたびの事なので「部屋が違うよ」と注意してやる。
「あ、そうかね」と、廊下に出ても右か左か分からないから、結局看護師に連れ帰って貰っていた。

歩行訓練で廊下を行ったり来たりしながら各部屋の観察をする。
入院して居るのは圧倒的に昔女性だった老婆である。
白髪交じりの髪を振り乱し、横たわっている姿は赤子を食らう脱衣婆そのもの。
パソ爺の近所にある「おびんずるさま」の前に鎮座している。

退院の許可は出ないのだがそんな雰囲気に辟易してしまい、依願退院をして来た。
老人病棟そのもので、いつか行く道であろかと思いながら仮釈放されて来た。

2010年9月23日木曜日

マスコミの付和雷同性

民主党の代表選挙の報道は、金太郎飴と同じ切り口で連日報道された。
管首相対小沢前幹事長の対立構造を殊更強調し、選挙後は分裂を予想し、組閣をすれば脱小沢色鮮明とか、挙党態勢は皆無を繰り返し、危機を煽り続ける。
テレビ、新聞、週刊誌が一斉にである。
もっと別な見方が出来ないのであろうか。
欠点をあげつらう事がマスコミの使命かの様だ。
良い点も見出して、これからの日本を託す政府を激励する事がなんで出来ないのか。

マスコミはオピニオンリーダー的役割を持っている、などとしたら驕りもいいところだ。
マスコミ報道は、やらせに始まり、誤報、虚報がないまぜになっていると思っている。
一社が書けば一斉に右へ倣えにだ。
警察、検察発表を検証する事も無く記事にして、新聞購読者に印象を植え付けてしまう。
一転裏目に出ると、それまでの立場をかなぐり捨て報道を180度急展開して憚らない。

郵便不正問題でも、一係長が減免証明書を発行して交付するなどと言う事は考えられない。
しかるべき政治家と上司からの指示で係長が作成し、所定の決済手続きを経て「凛の会」とやらに手渡されたと見るべきである。
無罪判決とFD改ざんが急浮上すると、論点がそちらに移り問題の本質が置き忘れられてしまっている。
議員との口利き依頼の日に、ゴルフに行っていたため不可能であるとなっているが、電話で事を済ませているかも知れないし、日を換えて会ったかも知れないではないか。
そうした取材を継続しているマスコミ報道に接したいものである。

尖閣諸島で発生した問題は、日中政治経済問題にまで発展してしまった。
連日、日本のマスコミは、中国側の強硬な対抗措置に対する我が国の経済的な損失ばかりを取り上げている。
長引けばどうのこうの・・・とか、渡航拒否された団体が気の毒だとか、そんな論調が政府の対応が悪いかのような方向に持って行かれるのが怖い。
超法規的打開策を期待するかのような報道姿勢は止めて貰いたい。
東シナ海を管轄する海上保安官は、命懸けで任務を遂行して居るのだから、現場の士気を鼓舞する応援報道をしてやれないものか。
逮捕した事は当たり前の行動であり、最近目に余る中国の覇権主義こそ非難されるべきである。

北朝鮮の韓国艦船の撃沈問題、日本の拉致問題や核問題に平然とうそぶく姿は、パトロン然とした中国の威光をバックにしたものである。
中国をして、信義の国、礼節の国などと言うのは、幻想であると思わなければならない。
昔から権謀術策が罷り通る国として成り立ち、今は仮面を被った共産主義の国であり、北朝鮮と同根である事を日本人も企業も忘れてはならないし、自国の政府批判に積極的なマスコミも中国の本質を正しく且つ冷静に知らしめる必要があると思う。

以上の論に対するコメントは不要である。
あくまでも私見の範囲であるから。

2010年9月22日水曜日

持ち込みパソコン講座の泣き所

「アナログ音源のデジタル化」の目安もついたので、テキストの作成に入った。
ミュージックホルダーに録音されたファイルを、Windows Media Player(WMP)でCDに書き込む手順を図解入りで分かりやすく、手取り足取るような解説で作る。(自分ではそう思っている。)
しかしそこに陥穽があった。
迂闊にも、受講者の持ち込みパソコンのバージョンを無視して、自分のVistaパソコン中心のテキストが出来上がってしまった。

XpパソコンのWMPは、バージョン8と9、Win7は12となっており、パソ爺のWMPは11となっているから手順が全く合わず、図も違っているため受講者たちはパニックとなってしまった。
「どこどこ。」「出ないよー。」右往左往して自分のパソコンと見比べている。
こんな場合は慌てず、直ちに”傾向と対策”(その昔、受験対策テキストがありました。)をとれるのが長年の経験である。
「はい、はい、皆さんお静かに。ほらほら、そこ聞いて。」と、高圧的に静粛を求める。
「合わないのは皆さんの怠慢です。」と、受講者の責任に転化しておいて、
「Xpパソコンを持参している人は、量販店で買ったままにしてあるんですよ。」
「パソコンのソフトは日々進化して、その情報はユーザーに提供されているんです。」
「?」
「インターネット回線を通してWordでもExcelでも、マイクロソフトから内容を新しくする情報が来ているのに、皆さんはほったらかしにしていたわけです。」
「店では何とも言って居なかったわ。」自分の不勉強を棚に上げている。

しかし、ここでパソ爺達ボランティアも反省しなければならない。
ソフトの自動更新が出来る事を教えていないのだ。
これまでは、公共のパソコンを使用させて貰っていたから、そうした所までは説明に入っていない。
こうして自前持ち込み方式になって、初めて出来る操作である。
WMP12に付いては、別途テキストを作成する事にし、8・9を11にバージョンアップをする事にする。
これだけで半日費やしてしまった。

こうしてアナログ音源のデジタル化は、週1回の講座ではあるが少しづつ前に進んで行く。
「どこまでつづくぬかるみぞ、~♪」
悲壮な軍歌である。

2010年9月21日火曜日

アナログ音源のデジタル化に挑戦

パソ爺のパソコン講座は、実用的な題材を取り上げるので好評である。(自画自賛)
その昔、歌謡曲を覚えるには、カセットテープやレコードで聞く事が多かった。
今やCDにとって変わられ、その姿が消えつつあり、家庭の中でも戸棚の片隅に追いやられ、カセットプレイヤーもCDプレイヤーとなっている。

そんな事がヒントになって、アナログ音源をCDに書き込む事を講座のテーマに掲げた。
みんな大喜びである。
お歳が知れるというもので、小難しいパソコンの機能を解説されているより、往年の想い出をパソコンで蘇らせ、懐かしいメロディに浸るのが楽しいのかもしれない。

Windowsには取り込むソフトが見当たらないので、インターネットで検索してみた。
事例は紹介されているので出来る目安は付いて来たが、より具体的に分からない。
フリーソフトでいろいろな使い方が書かれているが、うちの講座の人達にソフトのダウンロードから始めるなんていったら、恐れをなして尻込みしてしまいそうで断念する。
パソ爺も初めての事であるから、ここは量販店に行って聞く事にした。(聞くは一時の恥)
それらしい機器は有るのだが、店員もどれを勧めて良いか自信がなさそうで、結局、自己責任で決めざるを得ず、見当違いでも被害が少ないので一番安物を購入して来た。

それからテープを探し、カセットプレイヤーが動く事を確認してから取説の解読である。
先ず、ソフトのインストール。
これは簡単に出来るから、受講生も拒否反応を示さないと一安心。

次はプレイヤーとパソコンの接続。
 

「USBオーデオキャプチャー」を中間に接続する。
これは最も簡単に出来る。形に合わせて差し込むだけであるから。
そして取り込みをして見る事に。
出来た!。成功した。・・・・・見事にミュージックホルダーに入っていた。
そんなに大喜びをする程でも無いが、これなら、あの煩いおばさん達でも出来る。
後は、分かりやすいテキストを作成してやれば、何とか出来る。
と思ったのが間違いで、障害がある事に気付かされる。
この続きは次回に。

2010年9月20日月曜日

敬老の日雑感

敬老の日の成り立ちは、昭和22年に一地方で実施された「としよりの日」が始まりである。
「老人を大切にし、年寄りの知恵を借りて村作りをしよう」と、気候も良い9月中旬の15日を「としよりの日」と定め、敬老会を開いた。
昭和25年からは全県で行われるようになり、後に全国に広がった。その後「としより」という表現は良くないということで昭和39年に「老人の日」と改称され、昭和41年に国民の祝日「敬老の日」となった。(WikiPediaより抜粋)

小生の住む町内では、70歳以上の高齢者に祝い金として1,200円が支給される。
一軒一軒、役員が配って歩く。パソ爺も有り難く頂戴した。
額の多少は別にして、こうして顔を合わせるのが大切である。
都会の片隅で人知れず亡くなったり、住民登録上の生存者という事はなくなる。

その昔、研修で多摩ニュータウンを見学した事があった。
案内してくれた開発担当者は、これからの定住環境のモデルになると説明していた。
その時の印象は、コンクリートに固められ、隣りは何をする人ぞで、これが人間としての理想的住環境であろうかと疑問に思えた。
それ以上の印象は、鶏の産卵ゲージを想像したものだった。
5段に積み重ねられたゲージの幅は鶏自身の幅に横一列に2~30に仕切られ、昼夜の別なく産卵を強いられる姿である。
その後の多摩ニュータウンを知る事は無いが、コンクリート遺跡になっていない事を祈るばかりです。
閑話休題
年をとると、男は引き籠り気味に、女性は多趣味、外出気味になるようだ。
パソコン講座に応募してくる割合も3:7で女性である。
それも、明日はどこの公民館で、来週は何の集会に出る話で盛り上がってる。
継続して居るのも女性が多く、男性は教室の片隅に2~3人となってしまう。
その上うるさい、女性軍は一人がしゃべりだすと周りがそれにつられ、ワイワイがやがやとなり学級崩壊になってしまう。
その上、同じことを何度でも聞いて来る。
最前まで説明していた事も聞いてくる始末である。
「さっき話しましたよ」(講師の禁句、でも出てしまう。)
「あれ?そうですか。聞いていなかった見たい。もう一度お願いします。」
無碍には断れないから、同じ事を繰り返す。
すると、周りの人も同調して聞いているではないか。
だったら、これまで話していた事は、何んだったのだ。
自分の指導不足を反省し、少し落ち込むが今後に生かして行くしかないと、自身を鼓舞する。
毎日が勉強である。良い経験をさせて貰っている。
教室全体が騒音に包まれるから、自然と大声を出すので声量が出る様になる。
年をとると声が細くなり、だんだん聞こえなくなるが、パソ爺は衰える事はない。
ひとえに女性の皆さんのお陰と感謝しています。
これからも元気で、一緒に勉強して行きましょう。

2010年9月19日日曜日

パソ爺は意気軒高

中高年者のパソコン講座を仲間30人と主催している。
別に有資格者では無いので、初歩程度のパソコン操作であるが、15教室、250人ほどの方が和気あいあいと勉強している。
伊勢崎市の公共施設を無料開放して貰い、サポートする側も無償を原則に週2回の分担をしている。
テキストは、クラスの力量に合わせて市販物を見つけているが、小生はNHKのパソコン講座のものを使用している。
しかし、このテキストはそのまま使用出来無い、と言うのは、省略部分が多く手順を追って行けない悩みがある。
従って、内容を咀嚼して補助テキストを作り、又は、応用操作を纏めたりと、結構手間がかかる。

ここ2.3年は、自分のノートパソコンを持参してもらい、公のパソコンでは出来ない機能の変更、フリーソフトのダウンロード利用、インターネットの活用方法などを身近なテーマで行っている。
しかし問題が無いわけではない。
パソコンのグレードがXpからWin7まであり3部授業をしているような状況で、当方としてはぎりぎりVistaまでしか用意が出来ないから、Win7所有者の質問に立ち往生する事がある。

そんな事にはメゲテはいられないから、生徒のパソコンを借りて急場をしのぎ、もっともらしく講釈している。
結構、経済的負担を強いられるパソコンボランティア活動である。
愚痴は止めよう、体力が続く限りがんばりましょう。

今時の運動会

9月18日土曜日、小学5年生になる孫の運動会の日であった。
今年は異常気象とかで、例年にない暑い夏が続き、残暑も厳しい暑さが残っていたが、ここ2・3日は雨が降り朝夕は例年の気温になった。
しかし当日は晴れ渡り、朝から夏の名残りが戻り暑い運動会となってしまった。
プログラムの時間に合わせて学校に出かける。

今の運動会は様変わりして、昔は、校庭のグランドの周りを取り囲むように蓆や茣蓙を敷いて座って観覧していたものだが、今の若い父兄は、椅子やバーベキューテーブルを持ち込み、あまつさえミニテントまで張って観覧している。

120メートル競争に孫が出場した。
生まれ時は、1980グラムの未熟児として保育器の中でうごめいていた子が逞しく育ち、堂々の1着でゴールした。

それからムカデ競走に出て、午後の部では南部民謡の「七頭舞」を踊った。
小生の黒の3尺を襷に掛け、周りの子供たちはピンクや紫の襷にも拘らず、一人黒の襷で悪びれる様子もなく踊っていた。

しかし、なんと言っても圧巻だったのは、6年生が奏でるブラスバンドであった。
整然と行進しながら「宇宙戦艦ヤマトのマーチ」をいろいろなインフォーメーションを組み合わせ、感動を与えるものだった。

久しぶりに胸に迫る感激と勇気を与えて呉れた。
元気に育った孫、仲間たち、ありがとう。
これから中学、高校と脱皮して行く中で、この日の思い出を忘れずに進んで行って貰いたいものと願わずにはいられない。
バイク、シンナー、喫煙飲酒と誘惑の罠が待ち構えている世界に引き込まれないように。

これまでは、Biglobeのブログに投稿していたが、プロバイダーを変更してしまったら削除されてしまい、4年間の記録が消えてしまった。

先輩の「基左エ門の独り言」に触発され、これからは小まめに投稿する事にしたい。
自分が自分である意識が明瞭になっている間は余生録として。