2010年9月20日月曜日

敬老の日雑感

敬老の日の成り立ちは、昭和22年に一地方で実施された「としよりの日」が始まりである。
「老人を大切にし、年寄りの知恵を借りて村作りをしよう」と、気候も良い9月中旬の15日を「としよりの日」と定め、敬老会を開いた。
昭和25年からは全県で行われるようになり、後に全国に広がった。その後「としより」という表現は良くないということで昭和39年に「老人の日」と改称され、昭和41年に国民の祝日「敬老の日」となった。(WikiPediaより抜粋)

小生の住む町内では、70歳以上の高齢者に祝い金として1,200円が支給される。
一軒一軒、役員が配って歩く。パソ爺も有り難く頂戴した。
額の多少は別にして、こうして顔を合わせるのが大切である。
都会の片隅で人知れず亡くなったり、住民登録上の生存者という事はなくなる。

その昔、研修で多摩ニュータウンを見学した事があった。
案内してくれた開発担当者は、これからの定住環境のモデルになると説明していた。
その時の印象は、コンクリートに固められ、隣りは何をする人ぞで、これが人間としての理想的住環境であろうかと疑問に思えた。
それ以上の印象は、鶏の産卵ゲージを想像したものだった。
5段に積み重ねられたゲージの幅は鶏自身の幅に横一列に2~30に仕切られ、昼夜の別なく産卵を強いられる姿である。
その後の多摩ニュータウンを知る事は無いが、コンクリート遺跡になっていない事を祈るばかりです。
閑話休題
年をとると、男は引き籠り気味に、女性は多趣味、外出気味になるようだ。
パソコン講座に応募してくる割合も3:7で女性である。
それも、明日はどこの公民館で、来週は何の集会に出る話で盛り上がってる。
継続して居るのも女性が多く、男性は教室の片隅に2~3人となってしまう。
その上うるさい、女性軍は一人がしゃべりだすと周りがそれにつられ、ワイワイがやがやとなり学級崩壊になってしまう。
その上、同じことを何度でも聞いて来る。
最前まで説明していた事も聞いてくる始末である。
「さっき話しましたよ」(講師の禁句、でも出てしまう。)
「あれ?そうですか。聞いていなかった見たい。もう一度お願いします。」
無碍には断れないから、同じ事を繰り返す。
すると、周りの人も同調して聞いているではないか。
だったら、これまで話していた事は、何んだったのだ。
自分の指導不足を反省し、少し落ち込むが今後に生かして行くしかないと、自身を鼓舞する。
毎日が勉強である。良い経験をさせて貰っている。
教室全体が騒音に包まれるから、自然と大声を出すので声量が出る様になる。
年をとると声が細くなり、だんだん聞こえなくなるが、パソ爺は衰える事はない。
ひとえに女性の皆さんのお陰と感謝しています。
これからも元気で、一緒に勉強して行きましょう。

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