2011年5月28日土曜日

呆けも楽し、正気は苦し

2カ月に一度、美原記念病院で診察を受けている。
5年程前に眩暈を感じ、それ以来厄介になっている。
60日分の血圧の飲み薬と70枚の湿布薬を貰うために、2時間待ち5分診察を受けている。
この日も10時予約であるので9時半に受付をし、机の上に設置してある血圧測定器で測定し、順番を待っていた。
「コンちゃん暫らく」、と空いていた横にドッカと座ったのは一緒に退職したポン友である。
「やー暫らく。変わり無いかい?」
「ひと月に2回来ているンさ、それはそうと先日は悪かったいネ」
(?、ここ暫らくは逢っていないが、何だろう)
「出掛けたら道に迷って、気付いたら華蔵寺公園へ行ってしまい帰って来ちゃたんサ」
「何時の話?」
「ウン、先日サ」
「年金者の総会かい?」
「そうなんだよ、帰りに資料届けて貰って悪かったいネ」
「俺は欠席届を出して行かなかったよ」
「俺も行かない積もりだったんだけど、出掛けて行ったら道に迷って帰ってきたんサ」
「足が痺れているんで、あまり見良くないから今回は行くのを止めたよ」
「コンちゃん、何処が悪いんだい」
ここで話が合って来た。

それまでは、資料など届けていないのにお礼を言われたり、逢っても居なかったのに逢っていたかのような話で、脈絡が付かなかった。
「毎回母ちゃんと来ているんサ、医者の説明を聞いても直ぐに忘れてしまうんで」
「そうだよ、付き添って貰うのがいいんだよ」相槌を打つ。
「紙に書いてもらったて、その紙を何処に仕舞ったか忘れちゃて、大騒ぎするんだから」
「忘れる事はこの歳になれば誰でもあるよ。気にしない事だよ」
「そうだいネ。この間も、回覧板を回すのに何処へ持って行くか分らなくなって持ち帰ってきたんサ」
「イヤー俺なんかも、市民プラザでの集まりを文化会館と間違え行ってしまった事もあるよ」
こんな会話をしている間に、総会の資料を届けてもらった事の礼を3度・4度と繰り返すのだった。

認知症外来で来院していたのか。
誰かと間違えて居るが、顔は見知った顔なので時々話が正常になる。
彼とは、入職以来であるから40年近くになる付き合いであり、若い頃は南町を飲み歩き、赤線なども付き合った仲である。
退職後は、年に何回は行き来してグループ旅行などもしていたが、ここ1年近くは逢っていなかった。
昨年の忘年会は、赤石藩で開催したが来ていなかった。
グループ旅行などでも、宴会の最中に居なくなる事が有り、旅館の中を捜し歩いた事があった。
トイレに立って、帰りに迷っていたのだった。

小生もそんな事は有る。
旅館やホテルの造りも増設増設となっている処は、迷路の様になっている上にアルコールが入っている為、錯覚を起こす事がある。
一度などは、中からは開けられるが外からは開けられない階段室に間違って出てしまい、戻るに戻れず仕方なく最下段室まで降り、ようやくホテルの中に入り再び宴会場に戻った事がある。
この辺では、伊香保の「福一」がそうである。
南の建物棟の4階が、北棟では5階になっていたような気がする。

彼が迷っていたのも同じ様な造りで、廊下が曲りくねっていて、余程近くにトイレが無ければ目印を付けながら行かなければ戻るのが困難な造りであった。
それ以来彼が同席する宴会は、皆で気を付け合っていた。

しかし、朗らかなので安心した。
兎角自分が認知症などと宣告されると、気が滅入ってしまい無口になるようだが彼は違っていた。
明るく、覚束ない昔の記憶を繋ぎ合わせて喋っている。
きっと、思い出したくも無い記憶は消去され、今の今を楽しく暮らせているのだろうか。
そうであれば、忘れる事も必要であり、何よりも何時かは死ぬ事も忘れて暮らせるならば、忘却は高齢者にとって必要欠くべからざる生理現象である。

何時かは辿る道なれば、明るく、愛される呆け方をしたいものだ。
もしかして、この話は届けていたのが本当で、小生が忘れているのかもしれない。
ボケとはそういうことなのカも知れない。自分のした事、された事を信じて話しているのだから、そこには一点の疑問も生じないのではないか。

数日で6月である。
このブログも衣替えをします。文字も大きく高齢者向きにしました。

0 件のコメント:

コメントを投稿