2013年1月29日火曜日

太田町の由来と記憶

1月26日、太田町住民センターで生涯学習活動の一環として「太田村を中心とした伊勢崎地域の歴史」と題した講演会が有り、小生も出席をした。
歴史に関心のある人は多く、とりわけ自分の町内の生い立ちとなると殊更知りたい願望があるのかもしれない。
講師は、三郷文化財研究会で長年郷土史を研究している細井茂さんである。
パソ爺もこの研究会の末席に名を連ねているが、出来の悪い生徒で矢鱈と欠席が多い。

1時間30分にわたる内容から分かったことは、その昔々、今から約1000年以上前の書物に佐位郡とか那波郡とかの記述が有り、さらに遡って古墳時代には上野国が存在していたとの事である。
さて、太田の由来ですが、平安末期の豪族が賜った土地を開発した場所が大きな田であることから太田と名付けたとか、太田道灌が明石城を築城した時に、北に位置するこの地を太田とした、との諸説がある。
明治2年頃の古地図には、50戸余の小さな集落で、北は赤坂山以南(と言ってもその姿はなく、我ウサギ小屋を始めとして住宅が林立している)、西に安堀村と東は伊勢崎、南が連取村に接して、広瀬川が南に流れ、村の中央を南北に赤坂川が流れて南東の所で広瀬川と合流している。
安堀村境に「きじ川」と言う記載があるが、これは現在の平釜川の事で、太田村の西方で広瀬川に合流している川であろうか。
この川は、伊勢崎土木事務所の東を両毛線まで直線的に南下するように改修されてしまったが、パソ爺が知っている当時の川は曲がりくねった川で、両岸には篠竹や低木が繁茂し、小動物の住み家としても子供達にとっても恰好な遊び場であった。
しかし大雨のたびに氾濫して、周辺の土地をえぐり削って渦型の痕跡を各所に残していた。
だから土橋も流され、夜などにそこに人が落ちて死亡する事故の話が絶えなかった。
その怨霊が出ると言うので、夜の通行は極力避けていた記憶がある。

太田村当時は神社が2社あるが、お寺はない。
その2社も、五郎神社に合祀されて1社は本郷公民館となって地域のコミュニティセンターとなってしまった。
辛うじて残されているのは、庭先の一角に秋葉神社がのこって居る。
敬老の日などの祝賀会と合わせて、秋葉神社祭を行っている。
古老の話には、昔は火事が多く火伏の神である秋葉神社を勧請して祭ったとの事で、地元では今でも大事にしている。

太田郵便局の道向かいに、その昔赤坂屋と言う茶店が有った。

店の前に一本松が目印に様に立ち、縁台が店先にあり、波志江や安堀に帰る人が一休みする休憩所であった。ばあさんが居り、情報交換所としても役立っていた。
郵便局の北の小道を行くと中条さんと言う家があるが、そこは当時和菓子作りを家業にしていたところである。
近所の人が米搗きに行くのでリヤカーの後押しを手伝った時など、そこで米と和菓子を交換して食べさせてくれた。
味は忘れたが、今でも鮮烈な思い出として残る終戦直後の記憶である。

なんか懐古趣味的になり、太田村の成り立ちから逸れてしまった。

広瀬川の右岸も太田村で、三ツ家と言う。
名前の由来は、現広瀬川が本利根川であったのが西に流れを変えた跡地の河原に竹沢、板垣、加藤の三軒を出した姓から来ているとの事だが、此れにも異説が有り加藤ではなく、大島と言う説がある。
この人達が連取村の境界を越えて開発を進め、田畑地を広げ現在の市民病院辺りまで太田村としたため、連取村と訴訟沙汰になったとの事である。
何時の時代でも領地争い、境界侵犯があるが、ここはカスリン台風で広瀬川が氾濫してかなりの田が流失し、川幅も広げられて堤防の築堤が有ったから昔より狭くなってしまった様である。
古利根川の名残として広瀬川の左岸の崖、河岸段丘が見て取れる。

こんな事しか分らない。
何れにしても、人は平たんで、水辺に近い場所に住み家を作り、自然発生的に集落を形成するのであろう。



2 件のコメント:

  1. 近藤先生の詳細な解説で、太田町の由来と歴史がよく分かり勉強になりました。

    返信削除
  2. 現在の三郷地区の一部、太田町、同じ地区三郷の住民として、興味深く拝読して長い歴史の重みを感じました。

    返信削除