2013年1月30日水曜日

爺さん三人寄れば油蝉

昭和31年に勤め始めてから退職するまで約40年、退職後すでに16年余になるが、その時の仲間で商工会議所の専務理事だった相模さん、市商工部長を務めた細野さんの3人で久しぶりの旧交を温める機会が有った。
退職後はよく3人で、吉井カントリーなど近隣の安いゴルフ場で芝刈りをした。
相模さんはそこそこだったが、細野さんは下手の極めであった。
小生はその中間で、いい時と悪い時の差が有った。
そして飲んだ。
山楽荘が営業をしている時で、次回の約束をしていたら閉店となってしまった。
その時以来疎遠となり、ここ数年賀状の交換や、相模さんとはメールのやり取りをする程度となってしまった。
理由は3人とも体調不調で、足が悪くなったとか、どこそこを手術したとか、が原因である。

何時だったか、相模さんのブログに「体調が良い時にお会いしましょう。骨になってから疎遠を詫びるより、今の内に酒でも飲んだ方が功徳になるのでは。」との意味を書き込んだ。
それが実現した訳である。
なんて言う事はなく、ただ飲む口実を提案しただけである。
緑町、昔の南町である。
吉野鮨で会う事になった。
午後5時参集。時間通り集まって久しぶりに顔を突き合わせる。
5.6年前と変わりがない。元気そうな素振りで安心する。

酒を注文し、細野さんは冷酒赤城山、我々は燗をお願いする。
肴はなまの盛り合わせにし、特別注文を「白子のポン酢和え」としたが、躊躇いがあった。
ここに出入りをして何年かした頃、「すっぽん料理」があると言うので注文した時の事。
小さめの足つきグラスに赤い液体が出て来た。
何かと聞けば、すっぽんの血だと言うではないか。「うひゃー」なま臭くて飲めたものではない。
暫くして鍋が出て来たので蓋を取り、中を覗いてビックリ仰天。
野菜や糸蒟の間から5本指の手首足首が原型の状態で覗いているのだ。
将にすっぽんのバラバラ切断煮であったのだ。
とてもすっぽん料理を食べた気がせずに、その夜の飲み会が終わった思い出がある。

「白子のポン酢和え」もその二の前ではと心配しながら頼んだが、真っ白な白子がぷりぷりした感じでポン酢醤油の中にあり、浅葱がその上に振り掛けられ、食して見るとふんわりとした柔らかい赤子の肌を思わせる触感である。
「今夜は元気が付くぞ!」と言いながら食べたが、「もう小指の思い出だよ。」と、しみじみした調子で受け答える時の寂しさ。

話は弾み、現役当時であれば絶対話せない事が、時効が切れてああでもない、その時こうだった、あの話の真実はこうである等々、今だから話せる秘話が明かされる。
しかし、最後に落ち着くところは、どうやって最期を迎えるか、あの人の葬儀は寂しいものであったとか、俺の時の弔辞はお前が読むことになっていたよな、お前の時は俺がするよ等と、何れは訪れる死後の段取りに話が及び、お開きになった。

3人で16,000円余となる。

2 件のコメント:

  1. 昔の仲間との語らい先生の楽しそうな様子が目に浮かびます。楽しい時間はあっという間に過ぎて仕舞いますね。
    また次の機会まで元気でいようと思って頑張れるからたまには必要な時間ですよね。

    返信削除
  2. 男の友情、良いものですね。これからも元気で頑張ってください。

    返信削除