2011年9月19日月曜日

ばばじじの健康学級

9月16日金曜日、「シニアカレッジ」に参加して来た。
伊勢崎市から委託された各地域の介護施設(ここは美原記念病院である。)が地域高齢住民を対象に、食生活指導や健康維持体操の指導をするものである。

昨年は、妻が出席して「荒川ころばん体操」を習って来て、パソ爺に一緒にやるよう勧めていたが、何かバカらしい気がして適当に付き合っていたが、当の本人がしなくなってきたので何時しかDVDプレイヤーも埃を被っている。

今回、市から勧誘のお知らせが来たので、自ら申し込みをしたのである。
3年前に脊椎症脊髄症の手術をしても左足の麻痺と左手の痺れは改善されず、特に寒い時期は顕著に発症するので、その改善になるか一縷の望みを託し参加した。
既に3度ほど転倒をし、幸い骨折はしなかったものの上唇打撲損傷、2度目は朽木倒れの様に横に倒れ胸部打撲をしたが、公園の土の上で有った為に大事に至らなかった。
3度目は、歩道に躓き前のめりに倒れてしまい、手で支えた積りあったが右額を打った様だったが血が出る様な状態ではなかった。
打った様だったが、とは変な言い回しで有るが、野球帽の鍔が直接地面に当るのを防いだらしい。

当日の参加者は17名で、婆さんが13名、爺さんはパソ爺を入れて4名であった。
何処へ行っても元乙女だった人が多い。
開会前に身長、体重を量り標準体重比率を算出、パソ爺は25%。
来ての血圧と帰りの血圧を測定。
開会されると、お定まりの自己紹介となる。
トップバッタとなったパソ爺は、此れまでの経緯を話し、少しでも左足の改善をしたい旨を話す。
大方は何処其処の誰で、よろしくお願いしますで終わるが、いろいろ話してくれた人もいた。
「風邪を引いた後、食欲が出なくなり体重が減少して行くのが心配で参加した。」
「一人暮らしになったら、靴下を履けなくなったり、パンツも履きずらくなってしまった。」
「物忘れが酷くなり、膝が痛む様になったので歩けなく成らない内に来ました。」
「介護していた主人が無くなった後、何処も行く気が無くなり、人と交わる事が無くなってしまったので参加した。」
などなど、高齢者ならでは悩みである。

先ず食事の摂り方が話された。
要は食べ過ぎず、バランス良く、いろいろな種類を多く摂る事に尽きる。
これが約1時間、その後、「荒川ころばん体操」の実地指導が有り4時散会となる。

参加して気づく事は、年寄りはイレギュラー発言が多い。
此れは、パソコン教室などでもそうであるが、パソ爺は1度目は大目に見過ごすが、2度目以降は「私語は慎むように」、と少しきつくたしなめる。
教室の秩序が保たれなくなってしまうからである。

カレッジは月2回、場所が美原病院で有るから何とか皆勤出来そうである






2011年9月11日日曜日

片言隻句というなかれ

災害地に行った大臣が、又もや辞任に追い込まれた。
不用意と言うか、国民を代表して居る国会議員としての自覚が無いのか、所詮資質が無いのかもしれない。
放射能被害から避難して居る市町村に、人っ子一人見当たらないのは当然であり、その指示を出したのは政府自身である。
その情景を「死の町」と表現するとは、余りに酷い。
好きで住み慣れた土地を離れた訳ではなく、後ろ髪を引かれる思いで、それも隣近所、親戚友人と離散する様に避難場所へ向かったのであろう。
その心情を理解出来ない政治家に復興は任せられない。

「放射能が移る」
此れまでも、この手の虐めが有ったと聞いている。
避難先の学校で仲間外れされている子供に、同情したばかりである。
子供同士は遊び心が半分で、避難児童の気持ちには無頓着である。
それを大人が言ってはいけないし、大臣たる人の発言は重大な重みをまして拡散する。

「真意が伝わって居ない」とか、「発言の中の一語で、前後の脈絡から差別発言では無い」と、釈明していた。
確かに、「人っ子一人いない町の風景は、死の町の様にしてしまった。申し訳ない事だ。」
「原発で放射能を浴びた衣服だから、側によると危険だよ。」とでも言ったのかもしれない。
そうした事でも、原因者たる政府側の一員としては饒舌が過ぎている。
記者団に囲まれた事で優越感を抱き、何のために被災地訪問したのかの目的を忘れ、箍(たが)が外れてしまったのであろう。

国会議員ほどの身分でもない名も無き市井の高齢者であるが、不用意な発言は得てしてある。
緊張感が無い時、有頂天になって居る時、怖いものなど無いと錯覚をしている時などに言ってはならない事を言ってしまう事がある。
「不用意な寸言、我が身を刺し、積年の友情 寸時に瓦解す。」幾度あったろうか。
こうした後悔は、死ぬまで持って行かなければならない。

残された余生、少しでも後悔が無いよう過ごしたいものと思っている。

2011年9月10日土曜日

頻発する災害

台風の進路によって、こうも被害発生に差異が出るものなのか。
12号の最初の進路は関東地方に向かっていた。
それが四国に向きを変え、瀬戸内海を渡り中国地方から日本海に抜けて行った。
中心が通過したコースの周辺に被害が発生すると言う、皮肉な結果となっている。

昔、この辺に大雨が降り、周辺が水浸しになった事がある。
雨台風が来ていた時であろうか。
兎に角、数日降り続いて居た結果、埼玉県との県境に架かる坂東大橋の橋桁すれすれまで水面が迫り、約1キロ弱ある川幅一杯に濁流が流れる様は恐怖感を覚えさせるものであった。

支流の広瀬川も同様に堤防の8分目まで濁流が押し寄せ、溢れ出そうな勢いで有った。
そうすると、市内に降った雨を集めて来た中小河川は逆流して排出出来なくなり、側溝から溢れ出る雨水は低地に押し寄せてくる。
市内を横断している前橋古河線に架かる新開橋東詰の低くなっている所に溜り、水深1m位となった居た。
そこに自動車が次々と進入し、エンコして大騒ぎとなってしまった。
幸い人的被害は出なかったが、担当部署は道路改良の必要性を上申したが、百年に一度の大雨に対処する予算は出せないとの理由で却下されたと聞いている。
その頃は、異常気象などと言う表現はなかった。
温暖化現象などと言う言葉も、聞かなかったような気がする。

何より悲惨だったのは、市内南部で広瀬川右岸に立地する下水処理場周辺地区で有る。
上流地域で雨水を排出させるために下水道のマンホールが開けられ、そこに流し込んだから自然流化方式で集められる下水処理場周辺地区のマンホールの蓋が1mも噴き上がり、汚物を含んだ汚水が住宅に流入してしまった。
処理場も地下に汚水が溜まり出す始末である。
浄化も出来ず、緊急事態として未処理のまま強制排出をせざるを得ない状況で有った。

時折旅などして、山峡に点在する人家を見ながら其処に住む人たちに思いを馳せる事が有るが、災害までは思いがめぐらない。
長閑であるが、病気になった時はどうして居るんだろう、と我が身に置き換えて想像はするが、大雨になったらどうなってしまうのか、とまでは考えられない。

三陸海岸に旅をしても、風光明美な絶景に目を奪われ、津波が来たらどうするんだろうなどとは想像だにしない。
仙台に旅した時、石巻市の海鮮料亭で食事をした事が有る。
あわび、うに、マグロ、いか、たこ等の山盛りに舌づつみをうちながら地酒を飲んだ。
北上川が悠然と流れ出る、河口付近に有るお店で有った。
無事を祈るばかりである。

今日、地震、大水被害者は、明日の自分達でも有る。

「水を治める者は、国を治める」、古くて新しい言葉となってしまったようだ。

2011年9月7日水曜日

我が良き友よ

吉田拓郎作詞作曲の歌である
本人も歌っているが、かまやつひろしの歌が良い。
著作権が有るので詳しく記載できないが、6番有るなかで一番良い歌詞は以下の所である。

「可愛いあの子に声かけられて
頬を染めてたうぶな奴
語り明かせば下宿屋の
おばさん酒持ってやってくる
アーアー恋よ 良き友よ
俺は今でもこの町に住んで
女房、子供に手を焼きながらも
生きている」
この歌は昭和50年頃に流行したものらしい。

その頃の我は何をしていたのであろうか。
古い書類を捜し出して調べてみた。
昭和50年頃は、税関係の調査を担当していた。
来る日も来る日も単車に二人乗りして、課税物件を調べていた。
流石に雨の日は外出はしなかったが、今思えば、何故あんなに猟犬の如く課税して歩き回って居たのであろうか。
眼に付くものは悉く把握するという、徹底振りで有った。
税務特勤手当が2千円程度であったろうか。
そして年収は、約270万円程度のものである。

その頃は自動車通勤をしていた。中古のコロナであった。
7年前にこの地に家を建てた。借りられるだけ借りて。
長男は、狭く古い家で3歳まで過ごし、その頃は10歳になっていた。
二男は新居で誕生して4年が経っていた。
一番充実して居た様な気がする。
安月給でも気にならなかった。
自分の思い通りに事が進み、順風満帆とまでは行かないにしても何の不安も、心配も無かった。

しかし、人生の禍福は糾える縄の如し、と言われる様に、それからいろいろな出来事が公私に亘り降りかかって来た。

無分別さゆえに、他人にも痛みを与えて来た。
人生の岐路に立たせられた時もあった。

今の自分が生かされているのは、そうした蓄積の上に有る様なものと真摯に受け止め、残された余生の中で、少しでも報恩、贖罪の念を持って送りたいと思っている・・・・・。
大袈裟な言い方でした。

依然として煩悩多き人生で、美形の婦人を見ては心が騒ぎ、美酒を好みて酔い潰れ、喜怒哀楽納まり難く敵を多く作っている現状は、不治の病と申すべきものかも知れません。

だからこの歌が心に沁みるのです。
「古き時代と人が言う
今も昔と俺は言う
バンカラなどと口走る
古き言葉と悔やみつつ
アーアー友よ よき酒よ
時を憂いて飲み明かしたい
今も昔もこの酒つげば
心地よし」